三井寺(園城寺)みいでら(おんじょうじ)

京阪電鉄三井寺駅から徒歩7分、三井寺とも園城寺とも呼ばれる天台寺門宗の総本山である。
 園城寺という呼び名は、672年の壬申の乱で敗れた大友皇子(おおとものみこ)*の子、大友与多(おおとものよた)王が、父の霊を弔うために、「田園城邑」を寄進して寺を創建し、この文字にちなみ、天武天皇から「園城」という勅額が贈られたことが始まりとされている。境内から白鳳期(645~710)の瓦が出土しており、白鳳創建を裏付けている。一方、金堂*の後ろにある閼伽井屋(あかいや、国指定重要文化財)*には、天智・天武・持統の3帝が産湯にしたという霊泉が湧き、「御井(みい)の寺」と呼ばれていた。859(貞観元)年、智証大師円珍*が延暦寺の別院に改め、ここで三部潅頂(かんじょう)の法儀に御井の水を用いたことから、「三井寺」と称するようになった。
 868(貞観9)年、円珍は延暦寺第5代天台座主となる。円珍の死後、比叡山では円仁派と円珍派の間に抗争が起こり、円珍派が比叡山を下りて三井寺に入った。山の山門派(延暦寺)に対して、三井寺を本拠にした円珍派を寺門(じもん)派といい、山門と寺門の対立がつづいた。中世には山門派との争いや、源平や南北朝の戦乱により、たびたび焼討ちに遭った。これは三井寺が源氏と深く結んでいたためであるが、そのたびに復興してきた。その一方で高僧を輩出し、東大寺・興福寺・延暦寺と並ぶ日本四箇大寺の一つに数えられた。三井寺に大打撃を与えたのは豊臣秀吉で、寺領は没収され堂宇は強制的に移築された。三井寺の金堂は延暦寺西塔釈迦堂として現存している。しかし、秀吉が死去すると、秀吉の正室北政所や徳川氏によって再建され、最盛期には長等山一帯の広大な寺地を中院、南院、北院に分け*、850坊の堂塔坊舎を数えたという。
 三井寺は長等山腹にあり、「三井の晩鐘」で近江八景の一つに数えられた景勝地を占めている。延暦寺との長い争いを象徴するように門前を穴太(あのう)積みの石垣*と堀割で固めており、山内に入ると桃山時代の建築美を誇る数々の堂塔、子院が立ち、大寺の威風は充分である。
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みどころ

境内は広く、次々と国宝や国指定重要文化財の建造物がでてくるので、順を追って案内する。
 表門である大門(仁王門、国指定重要文化財)*をくぐると、右手に食堂(じきどう、釈迦堂、国指定重要文化財)*、正面の階段をのぼると金堂(国宝)がある。金堂は秀吉の正室北政所の寄進により、1599(慶長4)年に再建された安土桃山時代を代表する建造物である。金堂の南東には、1602(慶長7)年再建の鐘楼(国指定重要文化財)が立つ。鐘楼にかかる梵鐘は、近江八景「三井の晩鐘」で知られる。金堂の後ろに閼伽井屋(あかいや、国指定重要文化財)がある。閼伽井屋の横から山手にあがると、霊鐘堂があり、ここに安置されている梵鐘(国指定重要文化財)は奈良時代の作である。俵藤太*や弁慶の伝説で知られる。霊鐘堂のすぐ南には、一切経蔵(国指定重要文化財)*がある。この南に塔婆(三重塔*、国指定重要文化財)があり、さらにその南に唐院*がある。唐院を出て石段をおり、南へ行くと極彩色の毘沙門堂(国指定重要文化財)*が見える。1616(元和2)年の建立である。さらに右手の石段を上り詰めると、西国三十三所観音霊場14番札所の観音堂*がある。1689(元禄2)年の再建である。本尊は木造如意輪観音坐像(国指定重要文化財)で、33年ごとに開扉される秘仏である。ここからの琵琶湖の眺めは美しい。
一般公開をしていないが、4人以上で申し込めば特別拝観ができる光浄院客殿*と勧学院客殿*(ともに国宝)で最後の仕上げとなる。光浄院客殿は、仁王門をくぐって右の道をしばらく行き、金堂の北側にある石垣と白壁に囲まれた寺院である。勧学院客殿は、金堂の前から南に向かい、村雲橋を渡ったつぎの角を西に曲がってすぐ北側にあり、石垣で囲まれている。
 大門(仁王門)・総門・観音堂の3方から入れるが、大門から入るのを勧めたい。大門~金堂~鐘楼~閼伽井屋(あかいや)~弁慶の引摺鐘*~一切経蔵~唐院~毘沙門堂~観音堂と巡り、所要1時間である。
 近江八景の一つ「三井の晩鐘」の音色は、平等院、神護寺の鐘とともに三名鐘の一つに数えられている。荘厳な音色は、「日本の残したい音風景百選」にも選ばれている。ここの除夜の鐘は、時折、全国ネットのテレビでも放映される。
 1年を通じ各種の行事があるが、5月中旬頃に行われる千団子祭では、護法善神堂(千団子社)の秘仏である本尊鬼子母神像が開扉され、鬼子母神には1000人の子どもがいたとされることにちなみ、串に刺した1000個の団子が供えられる。
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補足情報

*大友皇子:天智天皇の第1皇子で、父帝の没後、叔父の大海人皇子(おおあまのみこ)と壬申の乱で争ったが敗死。天武天皇の時代に編纂された日本書紀には即位は認められていなかったが、1870(明治3)年、39代の天皇として弘文天皇となった。
*金堂:この寺の本堂で、七間四方、入母屋造、桧皮葺(ひわだぶき)の大建築である。白木造と桧皮葺の屋根が落ち着いた風格をみせており、内部は延暦寺根本中堂と同じく、内陣が外陣より低い土間になった天台寺院本堂建築の構造となっている。本尊は弥勒菩薩である。
*閼伽井屋(あかいや):金堂の後ろに立つ小堂。格子戸の奥の岩組の間から水が湧き出ており、この「御井(みい)」から寺名が生まれた。建物は向唐破風(むこうからはふ)をのせ、上部に竜をはじめ優れた彫刻を施している。1598(慶長3)年の造営。
*円珍:平安時代初めのころの天台僧。814(弘仁5)年生まれ、15歳で比叡山に登り、853(仁寿3)入唐。多数持ち帰った仏典は、国宝として三井寺に残っている。園城寺を伝法灌頂の道場となし、868(貞観9)年延暦寺第5代座主になる。3代座主円仁とともに、天台密教を隆盛に向かわせた功績は大きい。寺門派の祖となる。
*中院、南院、北院:中院は現在の金堂周辺、南院は観音堂あたり、北院は法明院一帯であった。ほかに微妙寺・近松寺・尾蔵寺・水観寺・常在寺の五別所と奥の院如意寺がある。
*穴太衆積みの石垣:自然石を巧みに組み上げた堅固な石垣を造る坂本の石工集団を穴太衆という。安土城をはじめとする城郭や寺院などの建築で活躍してきた。
*大門(仁王門):1452(宝徳4)年建立。1601(慶長6)年に、甲賀市石部にある常楽寺から、徳川家康によって移築された。全体のつりあいがよく、左右に運慶作という仁王像を安置し、1階と2階の間を廻縁(廻り縁)とする、三間一戸、入母屋造、桧皮葺の楼門である。
*食堂(じきどう):大門を入ってすぐ右手、室町時代中期に建造物で、1621(元和7)年、清凉殿(せいりようでん)の一部を移建したといわれ、簡素な造りである。正面七間、側面四間、入母屋造、桧皮葺。清涼寺式釈迦如来を安置しているため釈迦堂ともいう。
*俵藤太(藤原秀郷):瀬田唐橋を通りかかった俵藤太が、瀬田川に住む竜神に、三上山を七巻半もするという大百足の退治を頼まれ、みごと射止めるという話。
*一切経蔵(いっさいきようぞう):一間四方であるが、裳階(もこし)付きのため三間四方、二層に見える。宝形造(ほうぎょうづくり)の唐様建築で、1602(慶長7)年、毛利輝元が山口県国清寺(こくせいじ)から移した。内部は一切経を納める輪蔵があり、中心軸で回転できる。
*三重塔:方三間の三重塔。1597(慶長2)年、豊臣秀吉が奈良県の比蘇寺の塔婆を伏見城内に移したもので、1601(慶長6)年、徳川家康が現在の地に移建した。
*唐院(とういん):三重塔の南。白壁に囲まれた一角にある智証大師(円珍)の御廟。三井寺ではもっとも神聖なところである。ここには四脚門、潅頂堂(かんじょうどう)、唐門、大師堂があり、いずれも上品な住宅風建築物で、1598(慶長3)年に造営された。大師堂には御骨(こつ)大師と呼ばれる木造智証大師坐像(国宝)、中尊大師とよぶ木造智証大師坐像(国宝)、像黄不動尊(国指定重要文化財)を安置している。
*毘沙門堂(びしゃもんどう):長等公園の方向へ進んだ途中に立っている正面一間、側面二間、宝形造の小堂。桃山時代風の意匠が施されている。
*観音堂:境内の南はずれの高台に立っているのが如意輪観音を祭る観音堂で、西国三十三ケ所14番札所になっている。香煙が立ちのぼり、巡礼者が多数参拝している光景は金堂周辺の厳粛な雰囲気と対照的である。ここから見る琵琶湖の眺望はむかしから有名。
*光浄院客殿:1601(慶長6)年、光浄院住持山岡道阿弥によって再建。初期書院造の典型と言える建物。上座の間と次の間に描かれた障壁画(国指定重要文化財)は作者不明だが、安土桃山時代の狩野派の筆によるもの。光浄院庭園(名勝・史跡)は客殿の南面に広がる。池は、客殿の広縁の下まで入り込む特異な形態をとっている。池には中島を設け、3個の石を直線に配列し、対岸の中央西南には、2個の立石により枯滝を作っている。庭には、スギ・マツ・カエデ・ツツジ・サツキなどが植えられている。
*勧学院客殿:学問所。秀頼の命を受け、毛利輝元によって、1600(慶長5)年に再建された。初期書院造の形態である主殿造の形式を伝える貴重な遺構である。内部は三列八室よりなる。一之間及び二之間の障壁画(国指定重要文化財)は狩野永徳の嫡男狩野光信の作である。一之間の障壁画は、金碧による「四季花木図」で構成され、華麗である。
*弁慶の引摺鐘:俵藤太が百足退治のお礼に竜宮から持ち帰った鐘を寄進。その後、山門との争いで比叡山の弁慶が奪って、山へ引き上げてしまったが、鐘は寺へ帰りたがり、「イノー、イノー(関西弁で帰りたい)」と響くため、怒った弁慶が谷へ落としてしまった。このため破れ鐘となってしまい、寺に戻っても鳴らなくなってしまったという。