彦根城
JR彦根駅西方の金亀山(こんきざん)の丘上に、琵琶湖畔を望み、白壁の三重三階の天守をのぞかせ聳え立つ。
井伊直政の遣志を継いで、子直継(のちに直勝と改名)が約20年をかけて築城、1622(元和8)年頃に完成した。近江に残る豊臣色一掃の目的を兼ねて、資材は大津・小谷(おだに)・長浜・安土・佐和山などの城の石垣や用材を使用し造られた。江戸時代の後は、明治廃城令や戦災を免れ、現在も旧態をとどめている。往時の天守が現存する全国12城の一つで、国宝に指定されている。
城へは三方から入ることができ、一般には駅寄りのいろは松の並木を通り、佐和口多聞櫓(さわぐちたもんやぐら)*から馬屋*を左に折れ表門口から入る。石段を登りつめ廊下橋(ろうかばし)*を渡り、天秤櫓(てんびんやぐら)*、太鼓門櫓(たいこもんやぐら)*と見て、本丸北西端にある3重3層の天守閣*へ登る。月見台で琵琶湖や市街を望み、帰路は西の丸三重櫓*に向かい黒門へ。黒門から城外の玄宮園(げんきゅうえん)に行くことができる。
また城内の表御殿跡地には、城主井伊家代々の所蔵品が展示されている彦根城博物館がある。館の中央にある江戸時代の能舞台では能や狂言が催される。
井伊直政の遣志を継いで、子直継(のちに直勝と改名)が約20年をかけて築城、1622(元和8)年頃に完成した。近江に残る豊臣色一掃の目的を兼ねて、資材は大津・小谷(おだに)・長浜・安土・佐和山などの城の石垣や用材を使用し造られた。江戸時代の後は、明治廃城令や戦災を免れ、現在も旧態をとどめている。往時の天守が現存する全国12城の一つで、国宝に指定されている。
城へは三方から入ることができ、一般には駅寄りのいろは松の並木を通り、佐和口多聞櫓(さわぐちたもんやぐら)*から馬屋*を左に折れ表門口から入る。石段を登りつめ廊下橋(ろうかばし)*を渡り、天秤櫓(てんびんやぐら)*、太鼓門櫓(たいこもんやぐら)*と見て、本丸北西端にある3重3層の天守閣*へ登る。月見台で琵琶湖や市街を望み、帰路は西の丸三重櫓*に向かい黒門へ。黒門から城外の玄宮園(げんきゅうえん)に行くことができる。
また城内の表御殿跡地には、城主井伊家代々の所蔵品が展示されている彦根城博物館がある。館の中央にある江戸時代の能舞台では能や狂言が催される。

みどころ
江戸時代に譜代大名の井伊氏が14代にわたり住んだ平山城。中堀より内側範囲に構成された城郭構造が極めて良好な形で残る。「刀や槍・弓矢で戦をした中世」と、「鉄砲での戦に備えた近世」のふたつの時代の城の特色を持つ。
城山一帯は常緑樹を中心に深い森があり、城郭の美しさと風格をひきたて、梅・桜・紅葉・雪と季節の中でさまざまな美しさを見せる。早春には米蔵跡の梅林も訪ねてみたい。桜はお堀沿いを中心に約1100本あり、咲いた薄いピンク色の桜が、石垣や白壁と調和してきれい。開花期には夜桜のライトアップ(内堀沿い)もされる。桜の開花に合わせた「春の名城めぐりツアー」は、人気の旅行企画となっている。
彦根城博物館の中央にある能舞台は、彦根藩の能舞台として最盛期に3箇所存在したうちで唯一現存するもの。1800(寛政12)年にこの場所に建てられた。屋根・柱の形式、橋掛りや鏡板の葉冠(ようかん)などに格式がある。舞台・後座(あとざ)・橋掛りの下の漆喰製の桝(ます)には、音響を高める効果があり、当時十分な配慮のもとに設計されていたことがうかがえる。現在主流となっている能楽堂の屋内の能舞台とは違い、屋外にある能舞台を別棟から拝見する伝統的な造りである。この能舞台では、毎年「彦根城能」や「狂言の集い」が開催される。
城山一帯は常緑樹を中心に深い森があり、城郭の美しさと風格をひきたて、梅・桜・紅葉・雪と季節の中でさまざまな美しさを見せる。早春には米蔵跡の梅林も訪ねてみたい。桜はお堀沿いを中心に約1100本あり、咲いた薄いピンク色の桜が、石垣や白壁と調和してきれい。開花期には夜桜のライトアップ(内堀沿い)もされる。桜の開花に合わせた「春の名城めぐりツアー」は、人気の旅行企画となっている。
彦根城博物館の中央にある能舞台は、彦根藩の能舞台として最盛期に3箇所存在したうちで唯一現存するもの。1800(寛政12)年にこの場所に建てられた。屋根・柱の形式、橋掛りや鏡板の葉冠(ようかん)などに格式がある。舞台・後座(あとざ)・橋掛りの下の漆喰製の桝(ます)には、音響を高める効果があり、当時十分な配慮のもとに設計されていたことがうかがえる。現在主流となっている能楽堂の屋内の能舞台とは違い、屋外にある能舞台を別棟から拝見する伝統的な造りである。この能舞台では、毎年「彦根城能」や「狂言の集い」が開催される。

補足情報
*佐和口多聞櫓(さわぐちたもんやぐら):入口に向かって左側は佐和山城から移したと伝える旧来からのもの。右側の櫓は、井伊直弼が桜田門外の変に散って100年目にあたる1960(昭和35)年、記念事業として二の丸佐和口多聞櫓跡に鉄筋造の櫓を復元した。※2023年12月現在非公開
*馬屋:藩主などの馬20頭以上が繋がれていた。城内に残るのは彦根城だけ。2015年に保存修理された、こけら葺きの屋根が美しい。
*廊下橋:鐘の丸と天秤櫓を結んで空堀をまたぐ。もと防備用の屋根があり廊下橋と呼ばれ、非常時には落とし橋になった。
*天秤櫓(てんびんやぐら):廊下橋を渡ると、橋を中心にして天秤のようにそれぞれ左右対称に二重櫓・隅櫓・多聞櫓が並び立つ。建物は羽柴秀吉の長浜城から移築したもの。石垣は右側が築城当時の牛蒡積(ごぼうづみ)、左は改修による整った石積。
*太鼓門櫓(たいこもんやぐら):戦国時代の迫力を感じさせる堅牢な城門が立つ。本丸表口の最終関門にあたるところから牙城(がじよう)の楼門とも呼ばれていた。旧藩時代は城内合図用の太鼓が置かれていた。櫓は旧彦根寺楼門で門柱の釘穴は順札が木札を打ちつけた跡と伝わるが、近年の解体修理では佐和山城城門との説もある。
*天守閣:京極高次(きようごくたかつぐ)の大津城天色閣の移築で、付櫓と多聞櫓を脇に置く。1606(慶長11)年、彦根大工浜野喜兵衛(はまのきへえ)が着工、藩当初の十八万石に則り、城山の高さにもあわせて、高さ24mとやや小造りである。石垣は牛蒡積、天守の2・3層に花頭窓を開き、唐破風・千鳥格子などを縦横に駆使した変化のある配置。中に入れば通柱(とおしばしら)をさけた造り、隠狭間(かくしざま)など内部の細かな工夫がある。
*三重櫓:本丸の西に連なる西の丸に立つ。浅井長政の小谷城(おだにじよう)天守閣の移築と伝わり、井伊直継の時代には木俣土佐守守勝(きまたとさのかみもりかつ)の預かりの櫓であった。
*彦根城博物館:関ケ原で勇名をはせた赤備えをはじめとする鎧・刀などの武具、豪華な大名の調度品・幕末関係資料などがある。また茶・花・書・能・焼物など諸芸に親しんだ井伊直弼の手作りの盃・茶器・自筆の書・能装束なども興味深い。御座の間や茶室・庭園が復元され、館そのものが博物館として楽しめる。
*馬屋:藩主などの馬20頭以上が繋がれていた。城内に残るのは彦根城だけ。2015年に保存修理された、こけら葺きの屋根が美しい。
*廊下橋:鐘の丸と天秤櫓を結んで空堀をまたぐ。もと防備用の屋根があり廊下橋と呼ばれ、非常時には落とし橋になった。
*天秤櫓(てんびんやぐら):廊下橋を渡ると、橋を中心にして天秤のようにそれぞれ左右対称に二重櫓・隅櫓・多聞櫓が並び立つ。建物は羽柴秀吉の長浜城から移築したもの。石垣は右側が築城当時の牛蒡積(ごぼうづみ)、左は改修による整った石積。
*太鼓門櫓(たいこもんやぐら):戦国時代の迫力を感じさせる堅牢な城門が立つ。本丸表口の最終関門にあたるところから牙城(がじよう)の楼門とも呼ばれていた。旧藩時代は城内合図用の太鼓が置かれていた。櫓は旧彦根寺楼門で門柱の釘穴は順札が木札を打ちつけた跡と伝わるが、近年の解体修理では佐和山城城門との説もある。
*天守閣:京極高次(きようごくたかつぐ)の大津城天色閣の移築で、付櫓と多聞櫓を脇に置く。1606(慶長11)年、彦根大工浜野喜兵衛(はまのきへえ)が着工、藩当初の十八万石に則り、城山の高さにもあわせて、高さ24mとやや小造りである。石垣は牛蒡積、天守の2・3層に花頭窓を開き、唐破風・千鳥格子などを縦横に駆使した変化のある配置。中に入れば通柱(とおしばしら)をさけた造り、隠狭間(かくしざま)など内部の細かな工夫がある。
*三重櫓:本丸の西に連なる西の丸に立つ。浅井長政の小谷城(おだにじよう)天守閣の移築と伝わり、井伊直継の時代には木俣土佐守守勝(きまたとさのかみもりかつ)の預かりの櫓であった。
*彦根城博物館:関ケ原で勇名をはせた赤備えをはじめとする鎧・刀などの武具、豪華な大名の調度品・幕末関係資料などがある。また茶・花・書・能・焼物など諸芸に親しんだ井伊直弼の手作りの盃・茶器・自筆の書・能装束なども興味深い。御座の間や茶室・庭園が復元され、館そのものが博物館として楽しめる。
関連リンク | 国宝 彦根城(彦根城運営管理センター)(WEBサイト) |
---|---|
参考文献 |
国宝 彦根城(彦根城運営管理センター)(WEBサイト) 彦根市(WEBサイト) 滋賀・びわ湖 観光情報(公益社団法人びわこビジターズビューロー)(WEBサイト)びわこ 「すごいぞ!彦根城」 サンライズ出版 |
2025年04月現在
※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。