久留女木の棚田くるめきのたなだ

浜松市の中心街から北へ約30km、三遠南信自動車道浜松いなさ北インターチェンジから北東へ約6km、観音山の南西斜面(標高210~290m)に広がる。総面積約7.7万m2、800枚ほどの棚田は、石積みや土坡(どは)で固められた法面によって、小さく曲線的な田から大きく直線的な田まで様々な形状に区切られている。
 久留女木*1の棚田の歴史は、中世には井伊荘(荘園)の一村として開発されていたと言われ、戦国時代にこの地を統治していた井伊家の庇護のもとさらに開墾が進んだと考えられている。 棚田の最上部には「竜宮小僧」*2と呼ばれる湧水があり、現在も棚田を潤す水源となっている。
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みどころ

緑豊かな里山に囲まれつつも緩やかな斜面に開放的な農業景観を見せる。訪問者用駐車場である旧久留女木小学校から最上部にある「竜宮小僧」を目指し歩いてみると、この棚田は、少量の水源と傾斜地という水田耕作には厳しい条件のなかで、中世から営々と積み上げた先人たちの努力と高度な土木技術による賜物だということがわかる。現在も、それを引き継ぐべく地元住民で組織する久留女木里山の会と外部耕作者からなる久留女木竜宮小僧の会が協力して棚田を保全・管理し、休耕田の復田に努め、周囲の里山の自然環境の保護にも力を入れている。
 このため、見学にあたっては、動植物の採取や持ち込みを行わないこと、舗装されていないあぜ道に入らないこと、農作業の支障にならないようにする、などの配慮が必要だ。
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補足情報

*1 久留女木:久留女木の地名については、江戸中期の「遠江国風土記伝」では「古老曰く、昔行基菩薩、諸国を行化して古郷に歸る。老婆に問うて曰ふ、汝應に衣を洗ふべきや。答へて曰ふ、今まさに田の苗を殖ゑんとす、故に衣(を洗う)の暇無しと。菩薩いへらく、我将に汝に代りて田の苗を殖ゑんと、藁の偶人を造つて田毎に之を置く。偶人忽ちに田を殖ゑ去つて水口より川に流れ、反轉して此處に止まる。故に久留女木と謂ふなりと」(原文は漢文・柳田国男による書き下し)という行基伝説を取り上げている。
*2 「竜宮小僧」:大正期の「引佐郡誌」が紹介している伝説では、久留女木に「大淵ありて頗る深く龍宮に通ずと言ふ 或時龍宮より一人の小僧現れ來りて田植えを手傳ひ又夏季夕立模様などあれば不在宅の干物を片付くる等人々の手傳」を行っていたという。この小僧は「蓼汁」は食さないといったが、村人が夕食に与えてしまったところ死んでしまい、「依て字中(地名)シゲの奥榎木の側へ葬る」と、その近くから「清水渾々と湧出するに至れりとぞ 現今中シゲの田は此水を以て潅漑しつつあり」としている。この伝説は、水田耕作での水の重要性を伝えるとともに、柳田国男は「桃太郎の伝説」のなかで「龍宮小僧が田植に手傳ひをしてくれたといふことは、農民で無い者には餘りに輕少ない恩澤のように感じられるだろうが、此際の手不足は村の最も大きな悩みであつたといふに止まらず、爰で仕事にはかが行くというふことは、事實亦蓄積の主要なる力でもあつたので、百姓の身の上では寧ろ金銀珊瑚綾錦などこそ、物遠い空想に過ぎなかったのである」とも解説している。