掛川城かけがわじょう

JR東海道本線・東海道新幹線掛川駅の北700mにある。もともとの城は、15世紀の終わりごろに今川家の重臣朝比奈泰熈によって、現在の掛川*1城跡から北東500mほどにある掛川古城に築かれたが、16世紀の初め頃*2、現在地に移り、築城した。 
 1569(永禄12)年に武田信玄に追われた今川氏真が朝比奈氏を頼り掛川城に立てこもったものの、包囲した徳川家康により落城し今川家は滅亡した。その後、徳川家康の支配下になったが、徳川家康の江戸転封に伴い、豊臣秀吉の臣下山内一豊が1590(天正18)年に入城し、天守も含め城郭や城下町を堅固な惣構え*3とするため整備、修築を行なった。関ヶ原の戦いで徳川側となった山内一豊は、その功で1601(慶長6)年に土佐へ転封。掛川城はその後、江戸幕政下で東海道の押さえとして3~7万石の譜代大名の居城となった。
 1854(安政元)年の大地震で天守をはじめ大半の建物を失ったが、太鼓櫓・御殿*4・天守台・霧吹きの井戸*5土塁・堀の一部が遺っている。1994(平成6)年には天守閣*6が木造で復元された。
 城跡は公園として整備され、緑が多く、サクラ・ツツジの名所でもある。隣接地には、国の重要文化財に指定されている大日本報徳社*7の大講堂も建っている。
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みどころ

東海道新幹線の車窓からも見える白い三層の天守閣は、掛川の街のなかでひときわ目立つ。実際に訪れてみると、天守閣自体は決して大規模ではないが、付櫓を設けたりして複雑な形態をしており、壮麗である。
 天守閣は時代考証を十分にしながらの木造での復元であることから、日本の城郭の歴史を知るのに適している。また、二の丸にある御殿は、城郭御殿として現存するものは京都二条城など含めても、全国的にみても数少ない貴重な建物で、国の重要文化財に指定されている。大名家の生活の場であり、幕藩体制下での政治経済の執行場所でもあるので、掛川藩政の中心地を体験して巡ることができるほか、江戸期の社会の仕組みの一端を知ることができる。
 城跡公園は、遺構や復元された櫓、門*8などもあり歴史散歩には格好だ。
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補足情報

*1 掛川:江戸後期に編纂された「掛川誌稿」によれば、この地は平安中期の「延喜式」では「横尾駅」と記されているが、これは「松尾」の誤写だとし、「松尾」は「城中ノ山(築城前の小山)ニ拠リテ名ヲ受ケ」た宿駅名だったとしている。「掛川」の名は「吾妻鏡」の養和2(1182)年5月12日の項に「懸河」として初出しており、「城外ノ川ニ属セシ名ニテ、皆此處ニ係レル稱呼ナルヘシ」と、城外の川の名によるものだとしている。「掛川誌稿」では「懸河」の地名の由来について、「恐ラクハ昔築城ノ前ニハ、川流ノ迫リシ所ニシテ、深淵ナリシ故、天險ヲ恃ンタメ其口ヲ塞テ、川ヲ南ニ移シ易ヘ、其趾ヲ要害ノ大池トナシタルモノナラン、鎌倉以来驛家ヲ懸河ト呼ビシモ、缺(かけ)川ト云義ニシテ、コノ懸崖ニ據リシ名ニナルヤ」 として、城(築城前は小山)の南側を流れる川(現在の逆川)が生み出した懸涯、すなわち「欠けた川」からきているのではないかとし、鎌倉以降は宿駅名も「懸河」となったとしている。
江戸時代中期までは「懸河城」「懸河宿」と記されていたが、青山家入部以降、「掛川」の表記も混じるようになり、「天明七(1787)年賜ル御朱印掛川ノ字用ラルルニ因テ當年ヨリ掛川ノ字ヲ用ユ」と「掛川誌稿」は整理している。                                                                
*2 16世紀の初め頃:「掛川誌稿」では、「明応文亀」(1492~1504)年間だと記している。                                                                          *3 惣構え:堀や、土居などで城下町を囲み、城の防御を堅固にすること。安土桃山から江戸時代初期に築城された城郭とみられる。                                                             
*4 御殿:城主の公邸、藩の役所、公式式典の場などとして使用。書院造。当初は、本丸に御殿が造られたが、その後二の丸に移転。現存する御殿は、1854(嘉永7)年の大地震で倒壊したため、城主太田資功により1855(安政2)年から1861(文久元)年にかけて再建したもの。1873(明治6)年の廃城以降、学校、役場、市庁舎、農協などに転用された。
*5 霧吹き井戸:「掛川誌稿」によれば、「本丸ノ天守臺ニ有リ、後世不覗ノ井トモ云、深ケレハナリ、俚俗ノ口碑ニハ昔敵襲ヒ來ルモノアレハ此井ヨリ霧ヲ生シテ人近ツクコトナカリシ」と伝えている。この井戸は、小高い山の上に本丸を築いたため、深い井戸になったといわれ、底までの深さは45mという。天守に向かう途中にある。この井戸のことから掛川城は雲霧城とも別称される。                
*6 天守閣:掛川城は、当初、朝比奈氏によって築城整備され、おおよその城域は定まったが、山内一豊の入城(1590年~1601年)により、城下町の整備や天守をはじめ城郭の建造・修築が行われた。1604年(慶長9)年の地震ではその天守が倒壊し、1621(元和7)年に松平定綱により再建(あるいは大修復)されたという。さらに1854(嘉永7)年の地震により天守などが倒壊し、明治期の廃城により、御殿など一部の建物を遺し建造物は撤去された。1994(平成6)年に至り、遺された史料、絵図から時代考証、推量を重ね、木造天守として復元され、その規模は外観3層、内部4層で縦6間(約12m)横5間(10m)である。                                                                        *7 大日本報徳社:二宮尊徳(金次郎)の指導を受けた岡田佐平治が地元の掛川で農民のために「至誠」「勤労」「分度」「推譲」を教えとする報徳運動を起こし、農業実践のなかで、道徳と経済の調和がとれた社会づくりを目指した。道徳門、経済門と刻まれている正門は1909(明治42)年の建立、門を入って正面の大講堂は1903(明治36)に建設され、大規模近代和風建築として国の重要文化財に指定されている。見学可。
*8 門:大手門は現在、堀の外の市街地に復元されているが、1659(万治2)年に井伊直好により建てられた同城の大手門二之門については廃城に伴い、油山寺(袋井市)に山門として移築され現存している。

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