三嶋大社みしまたいしゃ

JR東海道本線・新幹線三島駅の南東約1km、木立に囲まれた広い神域をもつ。延喜式にもその名があるものの詳しい縁起は不詳*1であるが、古くから伊豆一宮として広く崇敬を集めた。源頼朝も源氏再興を祈願したといい、頼朝腰掛け石がある。鎌倉期以後、「三嶋大明神」として崇敬された。
 本殿・幣殿・拝殿は、1854(嘉永7)年の東海地震で被災したが、1866(慶応2)年に建立され、境内のその他の建造物も、1868(明治元)年までには再建された。本殿・幣殿・拝殿はケヤキの権現造の複合建造物で、軒まわりの彫刻も、当時、伊豆の名工といわれた小沢半兵衛・希道父子等の手によるもの。
 祭神はもともとは大山祇命(山の神)であったが、明治期に入り積羽八重事代主神(恵比寿様)と改めた。その後この二柱を祭神とし、現在は合わせて「三嶋大明神」と称している。
 社宝として鎌倉時代の蒔絵技術を駆使した梅蒔絵手箱が遺されており、北条政子が奉納としたものといわれている。宝物館には鎌倉初期作の太刀1口*2、南北朝期作の脇指(差)1口*3、源頼家自筆の般若心経*4、三嶋大社矢田部氏文書などが収蔵され、境内には弓道場、若山牧水歌碑*5、国指定天然記念物のキンモクセイ*6などがある。毎年8月15日から17日には三嶋夏まつり*7も開催される。
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みどころ

伊豆湯ヶ島で幼少期を過ごした小説家の井上靖は、三嶋大社近くの伯母宅に寄宿して沼津の旧制中学に通学していたが、その時期のことを自伝的小説「夏草冬濤」にしている。そのなかで「すじ向いに三島大社の大きな石の鳥居がある。
 毎朝、往来へ出ると、神社の方へちょっと頭を下げて行くよう に伯母に言われているが、いつもこれは省略させて貰うことにしている」とか、あるいは「平生行ったこともない大社の本殿まで行った。大社というところは何と広いところだろうと思った」と記すなど、三島での生活の場面に数多く三嶋大社を取り上げている。いかに三島の市民に大社が親しまれているかがわかる。                                            
 境内を外からみると、こんもりとして木立に覆われているようにみえるが、大きな石の鳥居をくぐり、池などを左右にみながらまっすぐ伸びた参道を進むと、井上靖が描写しているように開放感ある空間が広がる。総門、神門をくぐり本殿に辿り着く。神門までは桜並木になっており、開花期は華やか。本殿などは、軒まわりの彫刻が精緻かつ装飾性に優れたもので必見。また、総門脇の宝物殿では、三嶋大社の長い信仰の歴史を知ることができるとともに、関係の深かった北条氏に関する文物もみることができ、興味深い。
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補足情報

*1 縁起は不詳:「延喜式」には現在地ではなく、所在地は賀茂郡(下田市付近)と記されている。同大社の縁起、古典籍などによれば三嶋大社の創始は、伊豆諸島の火山噴火に関り三宅島あるいは大島に鎮座し、その後下田に遷座、さらに平安中期以降に伊豆国の国府があった現在地に遷されたのではないかとされている。
*2 太刀1口:明治天皇からの奉納。作者宗忠は、備前国福岡一文字派の刀工。鎌倉初期の作とされる。
*3 脇指(差)1口:南北朝時代の作。平造りの刀身。刀工秋義の作例は少ないので貴重な一品。
*4 源頼家の自筆の般若心経:紙本墨書般若心経「源頼家筆 建仁三年八月十日」は現存する鎌倉幕府2代将軍源頼家の唯一の自筆書。
*5 若山牧水歌碑:「のずゑなる三島のまちのあげ花火月夜のそらに散りて消ゆるなり」
*6 キンモクセイ:舞殿手前にあり、みごとな枝張りを見せ9月上旬と下旬、2度にわたって満開となる。
*7 三嶋夏まつり:三嶋大社の例祭に合わせ、江戸時代からの山車の曳き回し、頼朝公旗挙げ行列、手筒花火、流鏑馬、農兵節パレードなど多彩な催しものがある。太宰治は『ロマネスク』のなかで、「三島大社では毎年、八月の十五日にお祭りがあり、宿場のひとたちは勿論、沼津の漁村や伊豆の山々から何万というひとがてんでに団扇を腰にはさみ大社さしてぞろぞろ集って来るのであった」と、この祭が盛大であったことを描写している。