千本松原せんぼんまつばら

狩野川河口の西、千本浜公園から駿河湾に面し、緩やかな弧を描くように田子の浦港近くまで延長約15km、幅100~200mほど続くマツ林。クロマツを中心とした造林地で、本数は10数万本に及ぶともいわれている。千本浜公園へは東海道本線沼津駅から南約1.6km。また、同線片浜駅や東田子の浦駅からもマツ林や浜に近い。           
 千本松原は景勝の地として古くから知られ、1242(仁治3)年頃成立したといわれる紀行文「東関紀行」*1にも、すでにその景観を称える記事がみえる。1580(天正8)年には千本浜とその沖での武田勝頼と小田原北条氏の合戦で、マツ林が荒廃したとの記録が「北条五代記」*2などにみられ、その後荒地となったこの浜辺に沼津市乗運寺の開山増誉上人が、1株ごとに読経しながら1,000本の松苗を植えたと伝えられている。
 また、江戸期には、この松原のすぐ北に東海道があったため、浮世絵の題材*3、あるいは「東海道中膝栗毛」*4のような道中物、紀行文で数多く取り上げられている。明治以降も、歌人若山牧水*5、作家井上靖*6をはじめとして文化人、文豪からも愛されマツ林の保護運動も行われたほどである。                                               
 マツ林の東端、沼津港寄りにある千本浜公園には、千本松原にちなむ歌碑、文学碑が点在し、散歩やジョギングが楽しめるようになっている。 
 また、千本浜に沿ってマツ林や富士山を眺めながらの約20kmのサイクリングロードも整備され、狩野川河口の対岸には沼津御用邸記念公園*7もある。
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みどころ

「東関紀行」にある「見渡せば千本の松の末遠く 緑につづく波の上かな」というような景観が広がり、たっぷりとした見事な海岸美をみせる。とくに100~200mの幅で10kmも続くマツ林は圧巻。
 千本松原と海辺の間には長い堤防がつづき、爽快なサイクリングロードになっている。海岸線が緩くカーブをしているので、駿河湾、マツ林、富士山の3つを視野に収めるポイントもあり、まさしく葛飾北斎の世界だ。                                                          
 千本浜公園から東へ1.5kmほどの狩野川河口付近にある沼津港には、魚市場やレストラン、駿河湾の魚を集めた沼津港深海水族館などがあり、行き帰りに立ち寄ると良い。
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補足情報

*1 「東関紀行」:「千本の松原といふ所あり。海の渚遠からず、松遥に生ひ渡りて、緑の影際もなし。沖には舟ども行き違ひて、木の葉の浮けるやうに見ゆ」としている。
*2 「北条五代記」:「見わたせは千もとの松のすゑ遠み見とりにつつく浪のうへかな(『東関紀行』からの引用部分)と 長明よめり彼千本の松原は勝頼時代海賊のためにさはりとて切り捨てけり 今は其の名はかりそ残りける」とあり、小田原北条家との陸戦にあたり、武田家側が松を伐採したと記している。なお、ここで記されている「長明」は「鴨長明」と思われ、「北条五代記」では「東関紀行」の作者を鴨長明としているが、現在ではこれは誤りとされ「東関紀行」の作者は不詳とされている。
*3 浮世絵の題材:葛飾北斎の「千本松原の不二」などが知られている。
*4 「東海道中膝栗毛」:「この景色見てはやすまにやならの坂いざたばこにや千本の松」と喜多八に狂歌を詠ませている。「休まにゃならぬ」と地名「ならの坂」、「たばこにせん」と「千本」を掛けている。
*5 若山牧水:「樹木とその葉 駿河湾一帯の風光」のなかで「松原ならば私は沼津の千本松原をとる。公園になつてゐるあたりはつまらないが、其處を少し離れて西へ入ると實にいゝ松原となつてゐる。樹がみな古く、且つ磯馴松と見えぬ眞直ぐな幹を持ち、一樣に茂つた三四町の廣さを保つてずつと西三里あまり打ち續いて田子の浦に終つてゐるのである」として「松原の茂みゆ見れば松が枝に木がくり見えて高き富士が嶺」など数首をこの案内記に添えている。千本浜公園には「幾山河 越えさりゆかば 寂しさのはてなむ國ぞ けふも旅ゆく」の歌碑が立っている。
*6 井上靖:井上靖は自伝的小説「夏草冬濤」のなかで、「旅館の前を通り過ぎると、自然に道はなくなり、四辺は広い砂浜の拡がりになる。右手の方は〝 千本浜〟というだけあって、どこ までも松の林が続いている。洪作たちは、すぐ浜の方へは出ないで、松林の中へはいって行った」など、千本浜とマツ林が数多くの場面で登場し、旧制沼津中学時代の遊び場であり、隠れ家であり、思索の場であったことを書き記している。千本浜公園の井上靖の文学碑には「千個の海のかけらが千本の松の間に挟まっていた 少年の日私はそれを一つずつ食べて育った」という詩が刻まれている。
*7 沼津御用邸記念公園:1893(明治26)年、大正天皇(当時は皇太子)の静養先として本邸が建設された。その後、東附属邸が建設され、西附属邸も順次整備された。1945(昭和20)年には沼津大空襲で本邸は焼失したが、付属邸などが御用邸として使用されていた。1970(昭和45)年に沼津市の管理となり、公園として整備された。公園の一部の景観が国指定の名勝となっている。