静岡浅間神社しずおかせんげんじんじゃ

JR東海道本線・東海道新幹線静岡駅の北西に約2km、静岡の名のもとになった賎機山(しずはたやま 標高171m)を背にして鎮座する。約4.5万m2の境内に、神部(かんべ)神社・浅間(あさま)神社・大歳御祖(おおとしみおや)神社の3本社*1と、麓山(はやま)神社・八千戈(やちほこ)神社・少彦名(すくなひこな)神社・玉鉾(たまぼこ)神社の4境内社があり、総称して静岡浅間神社と呼ばれている。駿河国の総社として古くから崇敬され、駿河今川氏*2の初代範国も、1336(建武3)年に遠江国守護を、翌年(または翌々年)に駿河国守護を任ぜられ、この地に入った折に同社を参拝している。
 今川氏は200年余りの同地での治政にあたり、一貫して崇敬した。さらに、徳川氏*3も手厚く保護し、江戸幕政下を通じ総石高2,313石の社領を安堵した。江戸期には数度の火災に遭ったが、3代将軍徳川家光をはじめ、その時々の将軍家は再建、造営に巨額の費用を投じ、宮大工の派遣まで行った。                       
 現在の社殿は江戸時代末期に約60年の歳月をかけ、幕府の支援の下、再建されたものである。神部神社浅間神社の社殿は、総門・楼門・回廊・舞殿・拝殿および本殿からなり、拝殿は正面7間、側面4間、切妻造、銅瓦葺き、前面に千鳥破風を配し高楼を設けた、いわゆる浅間造の大建築である。内外とも漆塗りで、左右の妻・虹梁の上下には天人・雲・牡丹(ぼたん)などの極彩色の彫刻が施されている。なお、拝殿から向かって右が神部神社、左が浅間神社、赤鳥居から入ったところに大歳御祖神社の社殿群がある。                            
 神部神社の主祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、配祀神は瓊々杵命(ににぎのみこと)、栲幡千々姫命(たくはたちぢひめのみこと)、東照宮。浅間神社の主祭神は木之花咲耶姫命(このはなさくやひめのみこと 瓊々杵命の妃神)、配祀神は瓊々杵命、栲幡千々姫命。大歳御祖神社の主祭神は大歳御祖命(大年神の母神)、配祀神は雷神。
 静岡浅間神社の例大祭「廿日会祭」は毎年4月1日~5日に開催。国指定無形民俗文化財の「稚児舞楽」が奉奏*4される。
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みどころ

境内はこんもりとした緑に包まれている賎機山を背にしているので、ここが静岡市の官庁街から歩いて15分ほどのところにあると思えないほど静寂を保っている。賎機山の老樹の緑に楼門、社殿が映え、絢爛豪華のなかに荘厳さが漂う。今川氏、武田氏、徳川氏など中世から近世にかけ、有力武将に崇敬をうけた神社だけに、境内には寄進された社殿、楼門、回廊が残されたおり、その精緻で華麗な造りを観察しながら、その時代に思いを馳せるのも楽しい。
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補足情報

*1 3社:神部神社の創建は崇神天皇の時代とされ、駿河国の祖神として現在地に鎮座されたと伝わる。大歳御祖神社は商業・物流の拠点であった「安倍の市」の地主神として応神天皇の時代に創祀されたと伝えられ、平安期には駿河国司が駿河国総社を結成することを意図して同地に遷したという。同社も延喜式内社。浅間神社は、社記によれば、901(延喜元)年、醍醐天皇の勅願により「富士山本宮」より同地に分祀されたとされ、「富士新宮」として尊崇された。なお、同地での3社合祀については、初出の史料は1225(元仁2)年の「吾妻鏡」の3社焼失の記事とみられるので、鎌倉初期までには現在の形式が整ったと思われる。                       
*2 今川氏:初代の範国は、同社を参拝した時のお告げにより「笠幟ノ事ヲ案ゼシ時 我赤鳥ヲ賜イシ 故ニ勝事ヲモ得此國ヲ賜ヒキト託宣セシカバ…中略…以来我等モ子孫モ必ス此赤鳥ヲ可用ト仰セラレキ」(『駿河史料』)として、「赤鳥」が家紋となったという。
*3 徳川氏:江戸幕府初代将軍徳川家康は1549(天文18)年から12年間、竹千代と呼ばれた幼少期に今川氏の人質として駿府で過ごした。通常の人質とは異なり、今川氏の軍師であった臨済寺の住職雪斎に指導を受けるなど優遇されていたという。1584(天正14)年に、家康が5ヶ国(三河・遠江・駿河・甲斐・信濃)支配の拠点として、浜松から駿府に居城を移した。将軍を退いた後も隠居所としており、この地で亡くなっている。このため、家康の浅間神社への崇敬の念は強く、それが代々の将軍に受け継がれた。
*4 奉奏:舞楽奉奏の起源は、徳川家康が駿府城在城の折に、この舞楽が気に入り、浅間神社の2月20日の「お会式」に奉納し天下泰平・五穀豊穣を祈願したことに始まるという。