富士山本宮浅間大社
JR身延線富士宮駅の北西500m、市街中心にある。古くから駿河一ノ宮として名高く、全国の浅間神社の総本宮である。富士の山霊を鎮めるために祀られたもので、社記によれば806(大同元)年に社殿*1が造営されたといわれている。富士山表口登山道の入口にあって、富士山信仰の隆盛とともに勢力を誇った。富士山山頂に奥宮*2が祀られている。
主祭神は木花之佐久夜毘売命(別称 浅間大神)。 現在の社殿は1604(慶長9)年徳川家康の造営*3であり、本殿は二重の楼閣造で棟高45尺(13.6m)、下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、上層は三間社流造、檜皮葺きと、神社建築では特殊な様式をもち、浅間造と称されている。また、本殿の東側にある湧玉池には富士山からの湧水が毎秒2.4klと大量に湧き出し、水温は常に13℃と変わらず、市街地へは神田川となって流れ出ている。かつては富士登山者の禊ぎに使われていた。
年中行事としては5月4~6日の流鏑馬祭、7月7日の御田植、屋台や山車も曳き回される例大祭(11月3~5日)などがある。
同社の大鳥居に隣接して、静岡県立富士山世界遺産センター*4があり、富士山と信仰に関する資料や解説が展示されている。
主祭神は木花之佐久夜毘売命(別称 浅間大神)。 現在の社殿は1604(慶長9)年徳川家康の造営*3であり、本殿は二重の楼閣造で棟高45尺(13.6m)、下層は桁行5間・梁間4間の寄棟造、上層は三間社流造、檜皮葺きと、神社建築では特殊な様式をもち、浅間造と称されている。また、本殿の東側にある湧玉池には富士山からの湧水が毎秒2.4klと大量に湧き出し、水温は常に13℃と変わらず、市街地へは神田川となって流れ出ている。かつては富士登山者の禊ぎに使われていた。
年中行事としては5月4~6日の流鏑馬祭、7月7日の御田植、屋台や山車も曳き回される例大祭(11月3~5日)などがある。
同社の大鳥居に隣接して、静岡県立富士山世界遺産センター*4があり、富士山と信仰に関する資料や解説が展示されている。
みどころ
参道を正面から入ると、朱塗りの拝殿が際立ち、さらに進むと、その背後に二層の浅間造の本殿が豪壮に立ち上がっているのを見ることができる。富士山信仰の総本宮の貫禄と威厳を感じさせてくれる。
社殿の東側にある湧玉池は御手洗池とも呼ばれ、江戸末期の「駿河志料」では「池の上は自然の巨巌、突几として山をなす、其巌の際より淸泉涌出づ、白玉を吐くが如く涌出る、涌玉の池とは唱ふるなるべし、残闕風土記(『駿河国風土記』)に、神多地山(同森)御手洗洞とあるは此涌泉にて、神多地山は、此宮居の地を云なるべし」と、古くから清涼な湧水が境内の東側に池を作り、流れ出していることを記している。ここでは富士山からのあふれんばかりの湧水を実感できる。
また、大鳥居に隣接する静岡県立世界遺産センターでは、富士山と浅間大社を始めとする富士山信仰について、分かりやすく展示、紹介しているので、ぜひ立ち寄ることをお勧めしたい。
社殿の東側にある湧玉池は御手洗池とも呼ばれ、江戸末期の「駿河志料」では「池の上は自然の巨巌、突几として山をなす、其巌の際より淸泉涌出づ、白玉を吐くが如く涌出る、涌玉の池とは唱ふるなるべし、残闕風土記(『駿河国風土記』)に、神多地山(同森)御手洗洞とあるは此涌泉にて、神多地山は、此宮居の地を云なるべし」と、古くから清涼な湧水が境内の東側に池を作り、流れ出していることを記している。ここでは富士山からのあふれんばかりの湧水を実感できる。
また、大鳥居に隣接する静岡県立世界遺産センターでは、富士山と浅間大社を始めとする富士山信仰について、分かりやすく展示、紹介しているので、ぜひ立ち寄ることをお勧めしたい。
補足情報
*1 社殿:社記によれば、垂仁天皇3年(紀元前27年)に富士山の噴火に伴い周辺の地域が荒れ果てたことから、富士山の山霊を鎮めようと、山麓に祭祀の場が設けられたが、とくに特定された場所ではなかったといわれる。その後、現在地より北約6kmのところに祭祀場として山宮(現・山宮浅間神社社地)が設けられたものの、社殿はなかったといわれる。806(大同元)年に至り、現在地に遷座され、最初の社殿が造営されたという。
*2 奥宮:富士山山頂には奥宮が鎮座している。社記によると、浅間大社は1609(慶長14)年に山頂部の登山役銭を受用する権利を江戸幕府から与えられ、1779(安永8)年には8合目以上の支配権が認められたといわれている。山頂部は明治時代に、一時的に国有地化されたものの、現在は同社に返還されている。
*3 徳川家康の造営:浅間大社には古くから多くの武将たちが参拝し、とくに源頼朝、北条義時、武田信玄、徳川家康などの崇敬が篤かった。源頼朝は、社殿の修造や神領を寄進するとともに、1193(建久4)年に富士の巻狩りの際には流鏑馬を奉納し、それが現在の流鏑馬祭の起源とされている。徳川家康は、関ヶ原の戦い後、1582(天正10)年に北条氏政により焼かれた社殿の再建に尽力し、本殿・拝殿・楼門等30余棟を造営した。現在の本殿・拝殿・楼門等がその際に造立されたものである。
*4 静岡県立富士山世界遺産センター:展示棟の1~5階は、低速度撮影の動画を見ながら全長193mの螺旋のスロープを登ることで、富士登山の疑似体験ができるようになっている。3~5階にある展示スペースでは、常設展示として「美しき山」「育む山」「受け継ぐ山」「聖なる山」「荒ぶる山」をテーマにした展示・紹介が行われているほか、企画展も随時開催されている。また、センター内には富士山のいろいろな姿を映し出す4k画質の映像シアター、カフェ、ミュージアムショップがあり、最上階の5階には富士山や浅間大社の森を眺望できる展望ホールもある。
*2 奥宮:富士山山頂には奥宮が鎮座している。社記によると、浅間大社は1609(慶長14)年に山頂部の登山役銭を受用する権利を江戸幕府から与えられ、1779(安永8)年には8合目以上の支配権が認められたといわれている。山頂部は明治時代に、一時的に国有地化されたものの、現在は同社に返還されている。
*3 徳川家康の造営:浅間大社には古くから多くの武将たちが参拝し、とくに源頼朝、北条義時、武田信玄、徳川家康などの崇敬が篤かった。源頼朝は、社殿の修造や神領を寄進するとともに、1193(建久4)年に富士の巻狩りの際には流鏑馬を奉納し、それが現在の流鏑馬祭の起源とされている。徳川家康は、関ヶ原の戦い後、1582(天正10)年に北条氏政により焼かれた社殿の再建に尽力し、本殿・拝殿・楼門等30余棟を造営した。現在の本殿・拝殿・楼門等がその際に造立されたものである。
*4 静岡県立富士山世界遺産センター:展示棟の1~5階は、低速度撮影の動画を見ながら全長193mの螺旋のスロープを登ることで、富士登山の疑似体験ができるようになっている。3~5階にある展示スペースでは、常設展示として「美しき山」「育む山」「受け継ぐ山」「聖なる山」「荒ぶる山」をテーマにした展示・紹介が行われているほか、企画展も随時開催されている。また、センター内には富士山のいろいろな姿を映し出す4k画質の映像シアター、カフェ、ミュージアムショップがあり、最上階の5階には富士山や浅間大社の森を眺望できる展望ホールもある。
関連リンク | 富士山本宮浅間大社(WEBサイト) |
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参考文献 |
富士山本宮浅間大社(WEBサイト) 富士山本宮浅間大社(WEBサイト) 富士宮市(WEBサイト) 静岡県富士山世界遺産センター(WEBサイト) 国指定文化財等データベース(文化庁)(WEBサイト) |
2023年10月現在
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