美濃焼みのやき

美濃の南東部(主に多治見市・土岐市・瑞浪市・可児市)で焼かれたやきものを「美濃焼」という。この地域は窯業に適した地形と、原料の陶土や燃料の薪に恵まれていた。日本六古窯(ろっこよう)*の愛知県瀬戸市とは隣接した地域で、地中の粘土層は同質である。
 奈良時代には、「須恵器(すえき)」という釉薬(うわぐすり)を施さない灰色の硬質土器を生産していた。平安時代になると、愛知県猿投(さなげ)窯で人工的に釉薬を施した「灰釉陶器(かいゆうとうき)」が作られ、その後美濃窯でも生産され、10世紀前半には全国有数の産地に成長していった。安土・桃山時代から江戸時代にかけては、武家の茶の湯の普及とともに、釉薬を使い分けた「瀬戸黒(せとぐろ)」、「黄瀬戸(きぜと)」、「志野(しの)」、「織部(おりべ)」など新たなやきものを生み出し、広く全国に出荷した。江戸時代に入ると、庶民の日常食器など多種多様なやきものを作った。
 現代では生活に密着した器から芸術作品、ファインセラミックスやタイルなどの工業資材に至るまで、長い伝統に培われた技術力により、幅広くやきものを生産し続けている。特に日用食器類の全国シェアは50%以上を占めている。
 やきものの里の東濃地域には、窯元はじめ土や釉薬等の原材料、型、生地を作る工房・工場が多くあり、美濃焼の歴史を紹介した資料館・窯跡、陶磁器体験ができる施設、地元作家の作品・家庭用食器などをお得に買える店・道の駅も点在している。
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みどころ

以前、美濃焼は「せともの」と混同して扱われていた。桃山時代に美濃で焼かれた黄瀬戸や瀬戸黒といった茶の湯に使われる陶器(美濃桃山陶)は、瀬戸で焼かれたと思われていたので瀬戸という名が付いていた。しかし、荒川豊蔵*が1930(昭和5)年に、岐阜県可児市内で「志野の筍絵筒茶碗陶片」を発見し、美濃桃山陶は美濃産であることが判明、瀬戸焼から独立して美濃焼という概念が定着した。
 多治見市には志野・織部等の桃山陶などを展示した「美濃焼ミュージアム」、近隣には現代作家の作品が並ぶ「岐阜県現代陶芸美術館(セラミックパークMINO内)」、こども茶碗を紹介した「こども陶器博物館」、土岐市に美濃窯で作られた茶陶を展示した「美濃陶磁歴史館」、連房式の登り窯の元屋敷陶器窯跡を中心に整備された歴史公園「織部の里公園」、煉瓦製などの煙突が多く残る駄知町にはどんぶりの形をした屋根が目印の「道の駅土岐美濃焼街道どんぶり会館」、瑞浪市に美濃桃山陶や輸出用陶磁器を紹介した「瑞浪市陶磁資料館」、可児市に荒川豊蔵による志野・瀬戸黒の作品やコレクションを公開した「荒川豊蔵資料館」などがあり、この地域は美濃焼関連の資料館等施設が充実している。「陶の都」に訪れた人達が「ふれる」「めぐる」「つくる」「あじわう」「かう」を楽しめる街として、伝統的地場産業の陶磁器と観光を結びつけ、地域活性化が進められている。
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補足情報

*日本六古窯:古くからの陶磁器窯で中世から現在まで生産が続く代表的な6つの窯(越前・瀬戸・常滑・信楽・丹波・備前)の総称。
*荒川豊蔵:1894(明治27)年~1985(昭和60)年。陶芸家で、志野と瀬戸黒の技法で国の重要無形文化財保持者(人間国宝)に認定されている。