木曽三川の輪中集落きそさんせんのわじゅうしゅうらく

木曽三川(きそさんせん)とは、岐阜県南西部から愛知県北西部と三重県北部の一部にかけて広がる濃尾平野を流れる木曽川、長良川、揖斐川の3つの川の総称である。
 太古、木曽三川は上流から土砂を運び、濃尾平野を形成した。栄養のある土地と豊富な水に恵まれた木曽三川下流地域は、農作物が育ちやすく、水運にも便利で多くの人々が生活を営んだ。しかし同時に、台風や大雨による洪水への対策が必要不可欠だった。3河川は洪水により流路を変化させることもたびたびあった。
 最初は、小高い土地に住んで田畑を耕した。次に、上流の水が強くあたる部分のみに半円状の堤防を造った。更に、下流側からの逆流を防ぐ為に後方にも堤防を造り、輪のように囲まれた堤防になった。江戸時代になると、いくつかの小さな輪の堤を取り囲んで大きな堤防とした。これらの堤防で囲まれた地域を「輪中」と呼び、輪中を単位とした水防共同体が発達した。水屋*・助命壇*・堀田(ほりた)*など輪中特有の景観も生んだ。濃尾平野南西部では、明治時代の初めには80以上の輪中があった。
 江戸中期の1754~1755(宝暦4~5)年にかけては、薩摩藩による宝暦治水を、明治時代ではオランダ人技師ヨハネス・デ・レーケ*が調査・計画した木曽三川分流工事を1887~1912(明治20~45)年にかけて行なうなど、河川改修や護岸工事が幾度も行われた。木曽三川の川幅も広くなり、強固な堤防が築かれ、各地に排水機も整備された。今日では洪水も大変少なくなり、輪中堤や水屋の風景も姿を消しつつある。
#

みどころ

岐阜県海津市平田町は、県南西部、長良・揖斐両川にはさまれた低湿地帯で、高須輪中に包含される。町名は宝暦の治水工事に貢献した薩摩藩家老平田靱負(ひらたゆきえ)に由来する。城を模した外観の「海津市歴史民俗資料館」は、高須輪中の大型模型や資料展示があり、屋外に堀田が復元されている。高須輪中の南半分を占める海津市海津町は、中央水郷地区の中心に位置する国営の「木曽三川公園センター」があり、「展望タワー」では、宝暦治水工事ゆかりの千本松原や木曽三川を一望できる。
 羽島市の最南端には、明治時代にオランダ人ヨハネス・デ・レーケの調査設計により行われた木曽三川分流工事の記念碑が立っている。大垣市の「輪中館」は、輪中の資料や模型などで江戸時代から現在までの歴史や景観を解説・展示した施設。
 愛知県愛西市旧八開村地域は、木曽川の東、輪中の村でしばしば水害を受けた。耕地が低湿なためレンコン栽培が盛んで、「道の駅立田ふれあいの里」で販売されている。旧立田村福原には、水位の違う木曽川と長良川との船の交通を可能にした「船頭平閘門(せんどうひらこうもん)」が残る。隣の弥富市には、「輪中公園」や「弥富市歴史民俗資料館」がある。
 三重県桑名市長島町は、町全体が一つの輪中だった。戦国時代織田信長に抵抗した長島一向一揆では、輪中がゲリラ戦の砦となった。町の大半が水郷県立自然公園に指定され、輪中の歴史・文化を紹介する資料館「輪中の郷」がある。
#

補足情報

*水屋:母屋より一段と高く、土盛りや石垣を築いた上に建てられた土蔵風の建物。貴重品や米・味噌など食糧を貯え、軒下に上げ舟を常備し出水時に備えた。
*助命壇:水屋をもたない農民達の洪水時の避難場所。村や地区共同で土盛りをして造った高台や神社が多い。
*堀田:土地の一部を掘って積み上げ、高くした部分で米を作った。水路、短冊形の池沼になったところを「掘つぶれ」という。
*ヨハネス・デ・レーケ:1842(天保13)~1913(大正2)年。明治初めに日本政府が招いた御雇外国人の一人で、オランダの土木技術者。1873(明治6)年に来日し、大蔵省、内務省の御雇技師を務め、大阪築港や淀川、常願寺川、木曾川などの改修にあたった。河川改修や砂防工法に新技術を導入、東京神田区内の下水管敷設も指導した。
関連リンク 海津市(WEBサイト)
参考文献 海津市(WEBサイト)
NHKforSchool(WEBサイト)
『伝統的防災施設』パンフレット 岐阜県県土整備部河川課
『輪中』案内資料 大垣市輪中館
『伸びゆく輪中』海津市教育委員会

2024年04月現在

※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。