千本松原せんぼんまつばら

木曽川・長良川・揖斐川の3河川は、濃尾平野を貫流した後、下流の河口部ではほとんど同一地点に集まって海に注いでいる。これらの3つの川を総称して「木曽三川(きそさんせん)」という。
 古くから木曽三川は、下流部で合流・分流を繰り返し、大雨が降ると川から水があふれ出し大きな水害を起こしていた。これを防ぐため、木曽・長良川と揖斐川を分流させる堤防が三川合流点に築かれた。
 江戸幕府の命により、1754(宝暦4)年~1755(宝暦5)年にかけて薩摩藩が行った三川分流工事が「宝暦(ほうれき)治水工事」。そのうち最大の難工事が、上流の油島側から990m、下流の長島側から北に360m築堤する「油島締切工事」で、大勢の犠牲者を出しながらも完成した。薩摩藩士が黒マツ「日向松(ひゅうがまつ)」を九州から取り寄せて堤の上に植えて行ったと伝えられる揖斐川と長良川の背割堤1km余にわたって続く松並木一帯は「千本松原」と呼ばれている。
 松原の北端には、三川分流工事の総奉行平田靭負(ひらたゆきえ)*を祀る治水神社がある。
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みどころ

木曽三川の下流部は肥沃な土地の恵みがあると同時に、洪水や高潮の荒れ狂う地域であった。現在も岐阜県・愛知県・三重県に分かれているが、江戸時代には尾張藩・大垣藩・高須藩など大小の藩や幕府領(天領)が入り乱れていた。
 軍事目的と水害対策の為、1608(慶長13)年~1609(慶長14)年には徳川家康の命を受け、犬山市から弥富市にいたる全長47kmの堤防「御囲堤(おかこいつつみ)」が築かれた。尾張側の御囲堤は美濃側より、3尺(約1m)高く設定されていたと言われている。更に米の収穫量を増やすため、葦や柳の生えていた低湿地を田にする「新田開発」も進み、川幅が狭められ洪水増加の原因が高まった。
 1753(宝暦3)年の洪水で濃尾平野西南部のこの地域が大被害を受けた。洪水対策と河川の舟運改善のため、幕府は外様大名の薩摩藩に「御手伝普請(おてつだいぶしん)」を命じた。薩摩藩士らは、激しい水の流れに苦しんで多大の犠牲を払いながら、工事を見事完成させた。薩摩藩の支出は約40万両(現在の480億円相当)となった。
 1938年(昭和13)年に、平田靱負ら薩摩藩士殉職者を祀る治水神社が建立され、付近一帯は国の史跡(油島千本松締切堤)になっており、静かで落ち着いた雰囲気が漂っている。
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補足情報

*平田靭負(ひらたゆきえ):1704(宝永元)~1755(宝暦5)年。薩摩藩家老。宝暦治水工事の薩摩藩総奉行。現養老町の大巻を本小屋(もとごや)とし、1年2カ月にわたった難工事を遂行。1755(宝暦5)年、幕府の検分終了後、大巻にて亡くなった。(責任を負い自刃したともいわれる。)
関連リンク 海津市(WEBサイト)
参考文献 海津市(WEBサイト)
独立行政法人水資源機構 長良川河口堰管理所(WEBサイト)
NHKforSchool(WEBサイト)
治水神社(WEBサイト)
宝暦の治水 岐阜県の歴史散歩 山川出版社

2024年02月現在

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