岐阜城ぎふじょう

清流長良川をのぞむ金華山頂(標高329m)にあり、急峻な崖にまもられた山城。鎌倉時代に二階堂行政(にかいどうゆきまさ)*が砦を築いたのが始まりとされる。
 古くは稲葉山城とよばれ、1539(天文8)年頃斎藤道三*によって近世的城郭に改修された。1567(永禄10)年*織田信長が攻略して岐阜城と改め完成させ、天下布武の足掛りとした。その後池田輝政・豊臣秀勝と移り、信長の孫秀信のとき、1600(慶長5)年関ケ原の戦いの前哨戦で西軍に加わり落城。翌年天守閣・櫓などが加納城*に移され、廃城。
 往時の面影を残すのは米蔵跡・太鼓櫓跡・二の丸門跡の石垣。現在の天守閣は1956(昭和31)年の再建で3層4階構造、棟高17.7m、1階~3階は博物館、最上階の4階は展望室となっており、長良川や周辺の山々を望む。
 また岐阜城のすぐ傍らには、隅櫓を模した資料館があり、道三・信長・明智光秀らの遺品やゆかりの資料を展示、甲冑着付体験やトリックアートも展開している。
 山頂へはいくつかの登山コースのほか、岐阜公園*内山麓駅から山頂駅へロープウェーが運行している。
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みどころ

最上階からは、眼下に鵜飼で有名な長良川が岐阜市内を貫流し、東に恵那山、木曽御岳山、北に乗鞍山、北アルプス、西に伊吹山、養老山、鈴鹿山、南は濃尾平野と木曽川が一望できる。岐阜城最上階へ上がってパノラマの雄大な展望を眺め、戦国時代のつわものどもの夢の跡、油売りの行商から美濃の国盗りに成功した斉藤道三、岐阜城を足掛りに天下統一に挑んでいった織田信長、ともに道半ばで非業の死を遂げた人生と活躍ぶりに思いを馳せ、戦国時代へのロマンと理解を深めたい。
 また、金華山の山頂に岐阜城が立つ様は、ふもとの長良川河畔や岐阜市周辺から仰ぎ見ることができる。更に、岐阜城は日没から夜11時までライトアップされ、暗闇の中に城が浮かび上がる。(期間限定で夜間も営業する夜景実施日は減灯される。)昼夜ともに岐阜城のその姿は、美しく趣き深い。
 16世紀に岐阜を訪れた宣教師ルイス・フロイスによれば、織田信長の岐阜城は山頂の城と山麓の美しく豪華な4階の居館からなっていたという。現在、岐阜公園内の居館跡発掘調査を継続し、整備復元している。
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補足情報

*二階堂行政(にかいどうゆきまさ):生没年不詳。鎌倉時代の幕府官僚。藤原行遠の子。二階堂行光の父。二階堂氏の祖。鎌倉の二階堂に居をかまえ、地名を名字とした。早くから源頼朝につかえ、公文所寄人(くもんじょよりゅうど)、ついで政所の令、別当となり、1199(正治元)年幕府合議制13人のひとりとなった。本姓は藤原。号は白尾三郎。
*斉藤道三:1494(明応3)年~1556(弘治2)年。室町後期の武将。山城の人。名は利政、のち秀竜。道三は法名。油売りから身を起こして守護土岐氏を追い、美濃一国を治めて稲葉山に築城。のち、長男義竜に討たれた。織田信長はその女婿。
*1567(永禄10)年:落城は1564(永禄7)年の説もある。
*岐阜公園:岐阜公園は、戦国時代の岐阜城主であった斎藤道三や織田信長の居館があったとされる場所。園内には、信長の庭をはじめ織田信長公居館跡、冠木門、岐阜市歴史博物館、加藤栄三・東一記念美術館、華松軒(立礼茶席)、名和昆虫博物館等多くの施設が並ぶ。また「織田信長公居館跡」は発掘調査が行われ、金箔を施した痕跡がある飾り瓦や庭園の遺構が見つかっている。
関連リンク 岐阜市(WEBサイト)
参考文献 岐阜市(WEBサイト)
『岐阜城』パンフレット 岐阜市
『織田信長居館跡・地形想像図の制作』岐阜市立女子短期大学
『名城をゆく 岐阜城』小学館
『岐阜県の歴史散歩』岐阜県高等学校教育研究会公民・地歴部会,地理部会=編 山川出版社

2024年02月現在

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