郡上八幡城ぐじょうはちまんじょう

郡上市八幡町の市街の北、標高354mの八幡山上にある。南に吉田川、西に小駄良(こだら)川を擁した要害の地。城は1559(永禄2)年遠藤盛数(えんどうもりかず)*によって砦として築かれ、1588(天正16)年に二ノ丸・三ノ丸などを備えた平山城に改修された。城主はその後、稲葉・井上・金森・青山の各氏と代わり、明治維新に至った。
 古色を帯びた野面積*の石垣が幾重にもめぐらされ、往時をほうふつとさせる。別名積翠城(せきすいじょう)といい、現在、天守台跡には1933(昭和8)年大垣城を模して造られた天守閣・隅櫓・城門・塀が立つ。天守閣は木造4層5階建、内部は資料館で武具・馬具・書画などが陳列されている。城内に伝説の残る力石*や人柱およし*の観音堂がある。
 山上からは、城下の町並みや奥美濃の山並が一望できる。
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みどころ

城の景色は、春のサクラに加え、5月上旬は新緑、11月上・中旬は紅葉(ライトアップ有り)、冬の雪景色と、四季折々に異なった表情を見せる。更に年に数回、いくつかの気象条件が揃った時(湿度が高く放射冷却がある、朝方と日中の気温差が大きい、風が弱い等)にしか見ることのできない幻想的な光景は、まさに朝霧に包まれて浮かぶ「天空の城」である。
 江戸時代になり、太平の世になるにつれて城の本拠は山麓に移った。現在、麓から山頂の天守閣へ登る途中にある城山公園には、後に土佐藩主となった山内一豊と賢妻で名高い妻の千代(初代城主遠藤盛数の娘)の銅像があり、ふたりの背後から天守閣が見守っている。
 模擬天守ではあるが、木造の再建城としては、日本最古。
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補足情報

*野面積(のづらずみ):自然石を加工しないで割ったまま積む石垣の積み方。
*遠藤盛数(えんどうもりかず):生年不詳~1562(永禄5)年。戦国時代の武将。美濃国初代八幡城主。通称六左衛門。遠藤胤好の次男。妻は東常慶の娘。
*力石:第3代藩主である遠藤常友が城を改修した節に、剣村(現在の大和町)の通称「赤髭作兵衛」が城下の吉田川から巨石をひとりで運んできた。これを普請奉行の村上貞右衛門が褒め称えたところ赤髭作兵衛はその場で倒れて息絶えた。貞右衛門はこれを哀れんで、この石の使用を禁じた。1933(昭和8)年、模擬天守を建設する際に、放置されていたこの石は現在地(八幡城庭園内)に安置された。
*人柱およし:17歳のおよしは、城の改修の際、用材となる大木の運搬を不思議な力で手助けした。当時、石垣が何度も崩れる、柱がうまく立たないなど難航を極めていた八幡城では「人柱」を立てることとなり、およしに白羽の矢が立った。およしは、吉田川で身を清め、純白の振袖と帯をまとい、人柱として城の下に眠ったと言われている。城内には「およし観音」があり、およしの霊が祀られている。