永保寺えいほうじ

JR中央本線・太多線多治見駅の北東、土岐川に面した虎渓山(こけいざん)*北麓の緑に囲まれた古刹。鎌倉時代1313(正和2)年、夢窓疎石(むそうそせき)*が元翁本元(げんおうほうげん)*を伴い諸国行脚の途中、中国江西省の廬山(ろざん)の渓谷・虎渓*に似ていると、この地の自然風景を愛でて庵を建てた。翌年に本元を開基として寺を開き、その後も後醍醐(ごだいご)天皇、守護の土岐氏(ときし)などの帰依が厚く、寺勢を誇った。
 境内には、本殿である観音堂*の南面にひろがる池(心字池とも臥龍池ともいう)を主体とした池泉回遊式*の庭園が、周囲の風景と自然を巧みに利用して築造され、中世禅宗寺院の名園として名高く、国の名勝に指定されている。
 庭園西北の奥には、室町時代前期(1333~1392年)の唐様建築の開山堂*がある。
#

みどころ

東に土岐川の渓流を望み、西に岩山の崖を背負い、変わりゆく四季の変化に佇む禅宗の古寺である。その自然に囲まれた地形と岩山を活用した庭園の配置と構成は巧みである。西の山腹にある座禅石の地点からは、庭園一帯の風光を俯瞰することができ、視野に収まる広さと大きさの調和が絶妙といえる。
 庭園には、夢窓疎石の指導による「禅の悟りの境地である神仙境を、水を隔てた彼方に望む」という深い教養が表現されており、神仙境は観音堂と背後にそびえ滝を落とす幽妙な岩壁の梵音巌で、前には水を象徴する心字池(禅の心を表す池として命名された。玉石と粘土だけで造られ、別名は臥龍池。)が広がる。
 池には「彼方へ到達する心」を表す無際橋(橋中央の亭屋と呼ぶ小さな屋根が印象的な友橋)と呼ばれる橋が観音堂の前へと架かっている。樹齢700年を超える大イチョウが黄葉する11月中下旬頃は、庭園がより一層際立つ。
#

補足情報

*虎渓山:疎石の命名で、本来は長瀬山。頂上は虎渓公園で、市内の展望もよく、桜の名所としても知られる。
*夢窓疎石(むそうそせき):1275(建治元)年~1351(南朝 : 正平6、北朝 : 観応2)年。鎌倉時代、南宋から渡来した臨済宗の僧で、建長寺に住し、円覚寺を開山した無学祖元(むがくそげん)の流れをくむ禅僧。造園家としても名高く京都の西芳寺(苔寺)や天竜寺の庭園は代表作。禅における高い教養が見事な芸術として表現され、のちの日本庭園のもつ洗練さの基礎をつくった。
*元翁本元(げんおうほうげん):1281(弘安4)年~1332(醍醐天皇 : 元弘2、光厳天皇 : 元徳4、正慶元)年。仏徳禅師。疎石の法弟で、永保寺の開基として寺を任される。後醍醐天皇の帰依厚く、のちに上洛し比叡山・南禅寺などにいたが、晩年はこの地に戻り、没した。
*虎渓:「虎が住むと恐れられた人里離れた渓谷。「道」を語る3人の道士が夢中になり、知らずに虎渓を通過したことに気づいて大笑した」、虎渓三笑の故事で名高い。東洋画によく描かれる。
*観音堂:永保寺の本堂で、水月(すいげつ)場・観音閣(かんのんかく)とも呼ばれる。1314(正和3)年、夢窓疎石の建立。和様・唐様の折衷した建築で、一重の裳階(もこし)をもつ入母屋造・桧皮葺の屋根は、どっしりとした安定感を感じさせる。堂内には本尊の聖観音菩薩坐像が納められている。
*開山堂:典型的な唐様建築で、足利尊氏による1352(文和元)年の建立と伝わる。入母屋造・桧皮葺の屋根は、軒下の複雑な組木に支えられ、伸びやかで強いそりを見せる。建物は後世の権現造の原型となる様式で、横に回れば正面の礼堂とその方の祠堂を相の間でつなぎ、3棟で巧みに1堂を構成しているのが見られる。祠堂は、鑿の彫り跡が今も鮮やかに残る本元の骨塔宝篋印塔(ほうきょういんとう)のほか、疎石・本元の坐像が納められている。公開はしていない。
*池泉回遊式:江戸時代に発達した日本庭園の一様式。池とその周囲を巡る園路を中心に作庭するもの。桂離宮・金沢兼六園・六義園などが代表的である。