美濃町の町並みみのまちのまちなみ

岐阜市から長良川を20kmほど上流の県南部中央に位置し、美濃紙*の本場として知られる。市域中央で長良川と支流板取川が合流し、その合流点の南に中心市街が開ける。古くは上有知(こうずち)と呼ばれた地で、江戸時代初期に高山の町並みを作り上げた金森氏*が築き、小倉山城*の城下町として発達した。往時は長良川の水運を利用した、紙や生糸など物資の集散地として栄え、美濃紙専門の市が立った。明治時代末に、上有知町から美濃町に名称が変更された。
 東西2筋の街路と南北4筋の横町からなる目の字型の町並みは、江戸~明治時代にかけて建てられた商家が軒を連ねる。江戸時代中期創建の旧今井家住宅・美濃史料館や1772(安永元)年創業の造り酒屋・小坂家住宅はじめ、屋根の両端を一段高くして火災の類焼を防ぐ為に造られた「うだつ」が上がる町家が特徴である。多彩な形状の格子、縦に格子状の開口部がある漆喰塗りの虫籠(むしこ)窓、軒下に竹を曲げた囲いの犬矢来(いぬやらい)*も見られる。現在も美濃和紙を扱う店が多い。
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みどころ

うだつは隣家からの類焼を防ぐ壁の役目だが、往時の豪商は富と粋を競い合ったので、年代や家ごとに意匠が違っている。うだつを上げることが裕福さの象徴となり、生活や地位が向上しないことを「うだつが上がらない」と言うようになった。
 1999(平成11)年に重要伝統的建造物群保存地区に選定されたのを機に、住民の参画で「総合地区整備計画」、「景観マニュアル」を策定し、景観保全と魅力向上が進められている。架空線が撤去され、空の広がりと山並みの緑の眺望が良くなり、町並みの風格が増した。市民協働で「美濃和紙あかりアート展」など多彩なイベントも催され、賑わいを創出している。
 約10km北西の板取川右岸の蕨生(わらび)地区は美濃和紙の郷で、「美濃和紙の里会館」では美濃和紙の歴史や製造工程、紙すき道具などを紹介し、紙すきの体験もできる。
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補足情報

*美濃紙:美濃国での紙の生産は歴史が古く、奈良時代にはかなり普及していたといわれる。鎌倉時代に量産化ができて、「美濃紙」と呼ばれるようになった。板取川流域の牧谷(まきだに)と武儀(むぎ)川流域の武芸谷(むげだに)が主産地で、大矢田に紙市が立った。後に上有知へ紙市は移った。江戸時代には、幕府御用紙となって発展し、質量とも他国を圧しその名は全国に知れ渡った。製紙が発達したのは、楮や三椏などの原料が豊富であったこと、清水が豊富で紙の生産に適していたこと、交通の便が他産地より有利であったこと等が挙げられる。美濃紙の特徴は、丈夫でありながら薄くて透明感があることである。
この地の手漉和紙(てすきわし)工芸技術が「本美濃紙」として、1969(昭和44)年に国の重要無形文化財に指定された。
その要件は以下の通りである。
一 原料は「こうぞ」のみであること。
二 伝統的な製法と製紙用具によること。
 1 白皮作業を行い、煮熟には草木灰またはソーダ灰を使用すること。
 2 薬品漂白は行わず、填料(てんりょう)を紙料に添加しないこと。
 3 叩解(こうかい)は手打ち、またはこれに準じた方法で行うこと。
 4 抄造(しょうぞう)は、「ねり」にとろろあおいを用い、「かぎつけ」または「そぎつけ」の竹簀(たけす)による流漉きであること。
 5 板干しによる乾燥であること。
三 伝統的な本美濃紙の色沢、地合等の特質を保持すること。
更に、「本美濃紙」は2014(平成26)年に「和紙:日本の手漉和紙技術」として、石州半紙(島根県)と細川紙(埼玉県)と共にユネスコ無形文化遺産に登録された。本美濃紙保存会会員と研修生達により、技術の伝承が行われている。
翌2015(平成27)年に美濃和紙関係者で「美濃和紙ブランド価値向上研究会」を発足。「美濃紙」を『本美濃紙』、『美濃手すき和紙』、『美濃機械すき和紙』の3種類に分類し、各々厳しい品質基準を設定し美濃和紙のブランド力維持向上に努めている。
*金森氏:近世大名。美濃土岐氏庶流定頼の子定近が、近江野洲郡金森に住し金森氏を称した。その子長近は織田信長・豊臣秀吉に仕え、1585(天正13)年飛驒を平定し翌年一国3万8700石をあてがわれる。関ヶ原の戦後、可重(よししげ)が安堵をうけ代々飛驒高山藩主。頼旹(よりとき)に至り1692(元禄5)年出羽上山に移され、5年後さらに移封されて美濃郡上郡八幡藩主。その孫頼錦(よりかね)は郡上一揆(金森騒動)の失政を問われ1758(宝暦8)年改易。
*犬矢来(いぬやらい):湾曲した割り竹を並べて建物の壁や塀の下部を覆う、背の低い柵。京都の町屋などに多く見られる。語源は「犬をやらう」から来ており、「やらう」は「追い払う」という意味で、漢字は後からつけられたもの。
*小倉山城:1605(慶長10)年、飛騨高山藩主であった金森長近が、養子の可重に高山城を譲り隠居。小倉山城は長近の隠居城として築城されたもの。別名「小倉庄館」とも言われる。