松本城まつもとじょう

別の名を深志城と呼ばれる名城で、松本市街地の中心部にある。本丸・二の丸・三の丸からなり、堀は、内堀の大部分のほか外堀と総堀の一部が残る。本丸・二の丸の大部分は史跡公園になっているが、三の丸北東部は官庁街となっている。
 松本城は、戦国時代の深志の城がはじまりである。当時この地方を制していた小笠原氏*の一族の武将島立右近が1504(文亀4・永正元)年に築城したものと言われている。その後1582(天正10)年、小笠原貞慶が深志城を回復し、名を「松本城」と改めた。現存の松本城天守*は、1593~1594(文禄2~3)年にかけて、豊臣秀吉の家臣である石川数正・康長父子によって築造されたということが定説になっている。ただし辰巳附櫓と月見櫓は、1633~1634(寛永10~11)年の間に松平直政によって建てられたと伝えられる。石川氏の後も、歴代松本城主*の居城となり明治を迎える。
 1950~1955(昭和25~30)年に、国の直営工事による修理が行なわれた。また2014(平成26)年から2016(平成28)年に行われた耐震診断の結果、耐震性能が不足していることが判明したため、乾小天守を非公開としている。今後、耐震方法を検討した上で、耐震工事が行われる予定である。
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みどころ

松本市街地の中心部にその堂々とした姿を見せている。天守は国宝建造物で我が国の数少ない天守遺構の一つ。白と黒のコントラストが堀の水面に映え、背景の北アルプスが白銀をまとっている時の姿は見る者を圧倒する。大天守6階から望む松本市街と北アルプスの眺めはすばらしい。平らな土地に建つ平城のため周辺の景観も大事な要素となるが、背景に高層建築が目につかないことが素晴らしい。
 天守は、五重六階の大天守を中心に乾小天守を渡櫓で連結し、辰巳附櫓と月見櫓を複合した「連結複合式」と呼ばれる構成で、独立天守の多いその当時のものとしては珍しい。特に月見櫓は寛永年代に増設されたもので、三方を開放し朱塗りの回緑がまわりをめぐるという、優雅でまったく武備がない建築物である。天守の建物に月見櫓が接続しているという造りは松本城だけ。(林 清)
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補足情報

*小笠原氏:甲斐国巨摩郡小笠原出身の武士。室町時代に府中(現松本)に進出し、井川に館を構えた。武田氏に敗れるが1582(天正10)年貞慶のときに松本に戻っている。その後移封、貞慶の孫、忠真が小倉の15万石の大名となる。
*天守:現存する国宝天守の中で最古のものと言われている。入母屋式屋根に千鳥破風と唐破風を置く。外壁は、上部は白漆くいの大壁塗りで、下部は黒漆塗りの下見板張である。このほか、一間ごとに狭間を、初重の四隅や中間には石落しを設けてある。いずれも初期的な構造である。
*松本藩歴代の藩主:石川氏23年小笠原氏4年、戸田氏16年、松平氏5年、堀田氏4年、水野氏83年、戸田氏142年で明治維新をむかえる。
関連リンク 国宝松本城(松本城管理事務所)(WEBサイト)
参考文献 国宝松本城(松本城管理事務所)(WEBサイト)
「信州松本」パンフレット 松本観光コンベンション協会
「長野県の歴史散歩」出川出版

2022年09月現在

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