小諸城址(懐古園)こもろじょうし(かいこえん)

小諸駅の西方にあり城は千曲川の地形を利用して築城されている。1487(長享元)年大井光忠が現在の城跡の北方に鍋蓋城(なべぶたじょう)を築いたのがはじめである。のち信濃攻略の基地として、1532~1555年武田信玄*が山本勘助*に命じて城を築き、酔月城と称した。完成のとき、勘助は「遠近の深山隠れの秘事の縄幾千代を経む城の松風」と詠み祝ったとされる。
 西に本丸、東に二ノ丸・三ノ丸を築き、城の周囲には深さ10m以上の空堀を幾重にも回してその規模を誇ったといわれ、現在の城跡の基になっている。1590(天正18)年仙石秀久が入城して城を完成し、江戸幕府成立後は小諸藩初代藩主として小諸の町の原形を築いた。1702(元禄15)年牧野康重が城主となり、以来明治まで牧野氏の居城となった。
 1872(明治4)年の廃藩置県で廃城となった小諸城は、その後、小諸藩の元藩士らによって明治政府から買い戻され、1926(大正15・昭和元)年には、明治神宮の森や日比谷公園も設計した本多静六により、近代的な公園に生まれ変わり懐古園となった。 
 城よりも町の方が高いところにあるので穴城とも呼ばれた。現在苔むした石垣と城跡の入口となっている三ノ門*や大手門などが、わずかに往時の面影を残している。
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みどころ

島崎藤村の千曲川旅情の歌「小諸なる古城のほとり雲白く遊子悲しむ・・・」で広くその名を知られる。 園内は桜の名所として名高く、藤村記念館・小山敬三美術館・武器庫*・小諸義塾記念館・動物園や木村熊二・若山牧水・臼田亜浪(うすだあろう)ら小諸ゆかりの人たちの石碑がある。
 大手門は小諸城の正門として、仙石秀久によって1600(慶長5)年頃創建され、その華美な装飾をはぶいた質実剛健な建築は、東日本を代表する大手門建築の一つと言われている。明治期には、民間に払い下げられ、料亭や小諸義塾の仮校舎として使用されていた時期もあったが、平成に入って小諸市に寄贈された。その後、約5年をかけ平成の大改修、復元修理を経て、仙石秀久による創建当時の姿に甦っている。(林 清)
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補足情報

*武田信玄:1521~1573年。武田信玄は、1541(天文10)年に信虎を退隠させた後、甲斐国を掌握し、隣国信濃国に進出。北信地方を除き平定したもの、上杉謙信との対決を招き、数度にわたり「川中島の合戦」を戦うことになった。その後、隣国との関係を固め、1572(元亀3)年上洛を目指し、三方ヶ原の戦いなどで徳川軍を破り三河まで達したが、持病のため伊那駒場で没した。戦国武将として名高い信玄であるが、治政においても手腕を発揮し、とくに釜無川(富士川の上流)に氾濫を抑えるために独創的な信玄堤を築き、新田の開発を積極的に行うとともに、甲州金で知られる金山の開発、商・職人集団の編成や城下町の拡充に努めた。
*山本勘助:戦国時代の武将。武田信玄の足軽大将の一人。従来は勘助の実在そのものを疑問視する意見が強かったが、近年、菅助と明記された武田晴信(信玄)書状が発見され、その実在が確かめられた。『甲陽軍鑑』には勘助の活躍が随所にみられ、そこでは武田家の信濃侵攻の軍師格として登場しているが、そのすべてが事実とは思えない点も多い。(参考:『国史大辞典』)
*三ノ門:1765(明和2)年牧野康満が再建したもの。正面5間、側面2間、寄棟造の櫓門で、矢狭門・銃眼がつけられている。
*武器庫:旧小諸城の武器庫の建物を復元したもので、木造2階建。内部には当時の建築の一部である木組などを展示している。
関連リンク こもろ観光局(一般社団法人こもろ観光局)(WEBサイト)
参考文献 こもろ観光局(一般社団法人こもろ観光局)(WEBサイト)
「信州小諸」パンフレット こもろ観光局

2022年09月現在

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