放光寺ほうこうじ

JR中央本線塩山駅から北西に4.5km、恵林寺の北1kmほどにある。1184(元暦元)年、甲斐源氏の創始といわれる新羅三郎義光の孫安田義定*が平家追討のなか、戦勝を祝い、賀賢上人を開山とする天台宗の寺院として建立し、安田氏一門の菩提寺とした。その後真言宗に改宗、現在は真言宗智山派。義定は大日如来*、愛染明王*、不動明王*など多くの仏像を京都などから勧請し、仏師も招き金剛力士像*などを造立した。現在、本尊の大日如来などは宝物殿に安置され、一般公開されている。境内にある梵鐘も1191(建久2)年に義定が奉納したとされる(その後3回改鋳)。
 伽藍は、武田氏滅亡に際し、隣接する恵林寺ともどもすべて焼失。現在の仁王門、愛染堂は天正年間(1573~1592年)、庫裡は慶長年間(1596~1615年)、開基堂は寛文年間(1661~1673年)、本堂は元禄年間(1688~1704年)の再建といわれている。
 境内には、ウメ、サクラ、ハナモモ、ヤマブキ、ボタン、ハナショウブ、アジサイ、ハギなど、「花の寺」とよばれるほど、季節に応じた多くの草花が植栽されている。
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みどころ

甲斐源氏との関係が深く、武田信玄や甲斐国主であった柳沢吉保などからも篤く保護を受けてきた古刹。
 放光寺を創立した安田義定は、吉川英治の「新・平家物語」においても「義経以下、副将の田代信綱、安田義定、また梶原までが、すべて注目を怠らずにいたのは、いうまでもなく、みかどのお座船であった」など、平家追討軍での副将としての活躍が描かれており、甲斐源氏のなかでも、とくに秀でた武将の一人ではあったといわれる。寺宝の仏像等から、当時の武将の仏教信仰の篤さを窺い知ることができる。
 伽藍の配置は禅宗寺院の影響を受け、建物自体も、質素でシンプルな造りで、閑寂ではあるが重厚感も醸し出している。
 国指定の重要文化財の本尊の大日如来はじめ不動明王、愛染明王などが宝物殿で公開されており、とくに愛染明王は天に向かって弓矢を構える坐像という複雑な造形だが、見事にバランスがとれており、必見。
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補足情報

*安田義定:1134(長承3)年~1194(建久5)年。甲斐源氏の創始といわれる新羅三郎義光の孫にあたり、現在の甲州市を拠点とした武将。源頼朝が平家を駿河国富士川で迎え撃った「富士川の戦い」の主力武将の一人として活躍し、頼朝から「駿河国をば一条次郎忠頼、遠江国をば安田三郎義定に預けらる」(平家物語)と、遠江国の守護に補任され、さらに朝廷からも遠江守に任ぜられた。その後、義経の「一ケ谷の戦い」など平家追討でも戦功を挙げ、鎌倉幕府の有力武将となった。しかし、室町後期の編纂といわれる「鎌倉大草紙」によると、1194(建久5)年、義定は梶原景時のざん言により、頼朝に追われて法光寺(現・放光寺)で自害(「吾妻鏡」では「梟首」)したとされ、「義定ノ亡魂アリケレハ恐レヲナシ法光寺二多聞天王ヲ作リ其亡骨ヲ中ニ納メテ法光禅定トテ今ニアリ」と記されている。この多聞天王が当寺所蔵の毘沙門天像(多聞天が独尊像である場合の名称)といわれている。
*大日如来坐像:檜材の寄木造で座高は95.4cm、漆箔。流麗な藤原末期の特徴を示している。
*愛染明王坐像:檜材の寄木造で像高89.1cmの彩色像だが、大部分が剥落。焔髪に獅子冠、三眼瞋目の彫眼で、口は開いている。藤原末期の作といわれる。
*不動明王立像:檜材の一木造、一部布張りで彩色がある。忿怒の相の中にも穏やかさもある。創建当時の作といわれる。
*金剛力士像:鎌倉時代初頭に奈良を本拠とした仏師成朝の作といわれる。阿形像総高263cm、吽形像総高264cm。江戸期天正年間の仁王門再建に伴い、現在地に鎮座。

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