七尾城跡ななおじょうあと

七尾市街地の南東約4kmにある、戦国時代に能登国の守護・畠山氏が築いた山城である。標高約300mの本丸を中心に、石動山系の尾根上に築かれた城域は南北約2.5km、東西約0.8km、面積は約200haにおよび、一帯は「城山」と呼ばれている。山が急で谷が深いという自然の地形を巧みにいかし、七尾の地名の由来となった7つの尾根筋を中心に屋敷地である多数の曲輪を連ね、難攻不落の名城といわれた。山麓に築かれた城下町は京風の能登畠山文化の中心地となり、北陸屈指の都市として賑わった。現在も城山の全域に本丸・二の丸・三の丸・西の丸・調度丸や多くの曲輪の跡が広がり、石垣などの遺構が良好に見られる。本丸跡からは眺望がよく、七尾市街・能登島、さらに奥能登方面を望む。また、城下町についても、能越自動車道建設などに伴う発掘調査により、かなり大規模な町の様子が分かるようになり話題になった。
 〔歴史〕1408(応永15)年、畠山満慶が能登を分国とし、以後、その子孫が守護大名として169年間、能登を統治した。戦国時代初め、3代義統が能登に下向し、7代義総(1515(永正12)~1545(天文14)年)の時に七尾城を居城とした領国支配が安定する。8代義続の時以降、重臣たちが主導権を争い、畠山氏は大名としての実権を失っていく。1576(天正4)年、越中を制した上杉謙信は能登に侵攻し、七尾城を攻撃するが失敗する。翌年7月に再び城を囲み、同年9月、重臣・遊佐氏らが上杉方に内応したうえ、同じく重臣の長氏*が滅ぼされ、七尾城は落城した。謙信は城の堅固さや本丸からの絶景を称賛し、謙信の作とされる「九月十三夜」の漢詩*は、この時本丸に立って詠じたものと伝えられる。その後、1581(天正9)年に織田信長から能登一国を与えられた前田利家が入城するが、1583(天正11)年、利家は尾山(金沢)に移る。その後も七尾城の戦略的重要性は高く、本丸周辺部を中心に改修が行われたが、江戸時代の17世紀には廃城になった。
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みどころ

2018(平成30)年3月に策定された史跡七尾城跡保存活用計画に基づき、整備が進められている。最も大きな魅力のひとつである本丸跡からの眺望についても、本丸駐車場から調度丸に至る遊歩道のスギを剪定し、七尾南湾や能登島を一望できる往時の景観を復元している。また、七尾城跡で最大規模を誇る桜馬場の石垣もみどころのひとつである。山城跡全体の規模を実感するためには、山麓にある七尾城史資料館から歩いて登る「制覇コース」がお勧めだが、所要時間は約150分。自動車で山頂近くまで登る本丸駐車場からの「中心部コース」(約50分)でも、魅力を堪能できる。ただし、「山麓の惣構えから尾根々に曲輪を配し、標高300mの本丸まで山全体が城の山城である。足軽の気持ちで歩いて城攻めをするも良し、本丸駐車場から山頂中心部を攻めるも良し。ただ軽い気持ちで城攻めをすると、難攻不落の山城の怖さを知る事になるだろう。」(七尾城史資料館HP)とされている。
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補足情報

*長氏:畠山氏の重臣であったが、七尾城落城の際、一族は滅亡する。その時城を抜け出た連龍(つらたつ)によって再興、前田氏に仕えて鹿島半郡約3万石を与えられ加賀八家の一つに数えられる。
*「九月十三夜」の漢詩:「霜は軍営に満ちて秋気清し・数行の過雁月三更・越山併せ得たり能州の景・遮莫家郷の遠征を憶ふを」。後世の人が謙信に仮託した七尾城への挽歌ともいわれる。(「図説七尾の歴史」73ページ)
関連リンク 七尾市(WEBサイト)
参考文献 七尾市(WEBサイト)
能登畠山七尾城(公益財団法人七尾城址文化事業団)(WEBサイト)
ほっと石川旅ねっと(公益社団法人石川県観光連盟)(WEBサイト)
『図説 七尾の歴史』七尾市
『石川県の歴史散歩』 石川県の歴史散歩編集委員会=編 山川出版社

2023年08月現在

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