時國家ときくにけ

1185(文治元)年に能登へ配流された平大納言時忠(ときただ)*の子孫である時国氏の屋敷。源氏による迫害を恐れた時忠の子時国が、名前を姓とし、さらに転居して、農業・製塩業・金融業・海運業などの多角経営で富をなし、時国村を成した。1581(天正9)年、能登は加賀前田藩領となったが、1606(慶長11)年に時国村の一部が越中から移ってきた土方氏の所領地となり二重支配(分割支配)を受けることになった。時国家13代*藤左衛門は、1634(寛永11)年に時国家を二つに分けて、土方領(後に幕府領)には上時国家(本家)、前田領には時國家*が誕生した。両家は新田の開発等に精魂をこめ、ともに発展を図ったという。
◎上時国家:曽々木口から山手に入った町野川沿いにある。江戸時代には天領(幕府領)の大庄屋を勤め、苗字帯刀を許されている。住宅は江戸時代後期に建てられたもので、入母屋造、茅葺、唐破風造の玄関を持つ重厚な建物である。大庄屋屋敷として公用部分と私用部分を分割した構造で、公用部分の中心に「縁金折上格天井」の「大納言の間(別名 御前の間)」を配している。平家の定紋揚翅蝶(あげはちよう)を各所に配し、座敷の境上部には両面彫りの欄間を飾り、御前の間の欄間は蜃気楼を描いた珍しいものである。また、心字池を中心とする周囲の庭は江戸末期作庭と伝えられる。
◎時國家:時前田家から御墨付をもらって山廻り代官役塩取吟味人を勤めていた豪農である。上時国家から町野川沿いに約1km下ったところにあり、その住宅は江戸時代初期の建築と推定され重要文化財の指定をうけている。正面24.2m、側面14.7m、入母屋造、茅葺、平屋建で、農家の様式に書院造を加味した大きな木造建築である。広い土間の中央に大黒柱が2本立ち、22本の梁の組み方に特徴がある。屋根裏には「かくし倉」があり、農業のほかに製塩業・海鮮業などを営んでいた藩政時代の豪農の生活をしのばせる。一面を示す。約2000坪の庭園は、樹齢800年と伝えられる椎の林を背後に置く池泉回遊式庭園で、国の名勝に指定されている。1985(昭和60)年に赤間神宮から分霊された安徳天皇を祀る「能登安徳天皇社」がある。
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みどころ

両家とも外見は茅葺の大きな建物であり、江戸時代の大庄屋あるいは豪農の住居としての威厳や格式を感じるが、建物内部の印象は違ったものがある。「上時国家」は、唐破風造りの玄関を設けるとともに、「大納言の間」の天井や欄間などの手の込んだ造作や座敷飾りにやや派手な華美さを感じる。これに対して「時國家」の内部は、質実剛健ともいうべき様式を誇っている。一方、庭園については、「上時国家」に比べて「時國家」の方がやや広がりを感じる。こうした違いがどこから来るかは分からないが、同じ祖先から分かれて近くにある家でもこうした違いが出ているのは興味深いといえる。
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補足情報

*平時忠:1127(大治2)年、平時信の子として出生。姉時子は平清盛の妻、妹滋子は後白河院の女御で高倉天皇の生母である。「平家にあらずんば人にあらず」と豪語したといわれ、権大納言となって権勢を振るい、平関白と恐れられた。平家滅亡の際壇ノ浦で捕えられ、帰洛ののち娘蕨姫を源義経にとつがせている。晩年、能登に流され、時国、則貞の2子を儲けたが、1186(文治2)年現在の珠洲市大谷で死去した。
*時国家13代:平時忠を含めて数えている。
*時國家:2020(令和2)年11月から公開を休止している。また、上時国家は2023(令和5)年8月31日をもって閉館する。