山中温泉やまなかおんせん

山中温泉は、大聖寺川の渓流に臨み、東からは東山が、西からは水無山・薬師山が迫り、四方がほとんど山に囲まれた文字どおり山中の湯の町である。温泉の歴史は古く、医王寺に伝わる「山中温泉縁起絵巻」には、天平年間(729~718年)1300年前に僧行基*によって温泉が発見されたと記されている。平安末期に湯宿が設けられたと言われている。山中温泉縁起絵巻には、山中温泉は一時荒廃するも、長谷部信連(はせべのぶつら)*によって再興されるといった内容が綴られている。
 室町時代には浄土真宗本願寺中興の祖・蓮如上人が、江戸時代には俳人・松尾芭蕉*が訪れた。ただし、昭和初期まで各温泉宿には内湯が無く「湯ざや」と呼ばれる共同浴場を利用していた。1931(昭和6)年に当時の総戸数1,200戸のうち800戸以上を焼失した大火に見舞われたが、1935(昭和10)年頃に現在の温泉街が形成された。また、1997(平成9)年からは、この火事での延焼を免れた南部地区の都市計画道路温泉中央南線において、共同浴場からこおろぎ橋に至る国道364号の道路幅を6mから倍以上へと拡幅、全店舗を再構築・大改修した整備事業が行われた。2003(平成15)年度には第1期区間の整備が終了し、温泉情緒ある街並みは「ゆげ街道」と呼ばれている。2004(平成16)年度からは第2期区間の整備が行われ、地元・県・市が連携を図りながら、道路拡幅、歩道整備や街なみ整備、無電柱化を進められ、2019年(令和元)年8月に完了した。
 2003年(平成15)年完成、2004(平成16)年に都市景観大賞国土交通大臣表彰を受けている。
 山中温泉の総湯(共同湯)は直下に源泉があり、その泉質はカルシウム・ナトリウム-硫酸塩泉。で、神経痛、関節痛、慢性消化器病、痔疾、動脈硬化症、慢性皮膚病等に効能がある。芭蕉の句にちなんで「菊の湯」と名付けられており、男女別棟となっている。おとこ湯は重厚な天平風の建物で、腰まである深い浴槽が特徴。プール状の大きな湯船の壁には大きく山中温泉縁起絵巻の一部が九谷焼タイルで描かれている。おんな湯は華麗で優雅な曲線美をなす造りとなっており、浴槽には浅い所と深い所がある。男女別棟の総湯は全国的にも珍しいが、その間の大広場にはからくり時計、芭蕉が曾良との此処での別れに際し詠んだ句に因み「笠の露」と名付けた足湯、各種の催し物を開くホール山中座*などがある。山中温泉の宿泊施設は主に大聖寺川沿いに建てられているが、その渓谷は「鶴仙渓*」と名付けられ、1.3kmの遊歩道が整備されている。鶴仙渓には渓流の流れが凝灰色を深く浸食してできた「道明が淵」がある。松尾芭蕉が9日間の滞在中に2日も訪れた場所である。淵の右岸には「やまなかや きくはたをらじ ゆのにほひ(「山中や 菊は手折らぬ 湯の匂)の句を刻んだ句碑が建ち、木橋が架かっている。道明が淵は、国の名勝「おくのほそ道の風景地」に、2015(平成27)年3月に追加指定された。
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みどころ

山中温泉は大聖寺川沿いの温泉地で、鶴仙渓と名付けられた渓谷美がみどころである。総湯からゆげ街道を通り、こおろぎ橋を渡って鶴仙渓の遊歩道を辿り、あやとり橋を渡って総湯に戻るのが一般的な回遊ルートで、四季折々の景観と立ち並ぶ奇岩怪石、橋めぐりを楽しむことができる。こおろぎ橋は、橋長20.8m、幅員4mの木造橋で、現在の橋は2019(令和元)年に完成した4代目である。名前の由来は、かつて行路が極めて危なかったので「行路危(こうろぎ)」と称されたとも、秋の夜に鳴くこおろぎの声に由来するともいわれている。遊歩道の途中にある鶴仙渓川床では、著名な料理人・道場六三郎のレシピによるスイーツを味わいながら川の流れる音に聞き入ってゆったりとした時間を楽しむことが出来る。あやとりばしは、上流のこおろぎ橋と下流の黒谷橋のほぼ中間に位置する長さ94.7mの徒歩専用橋で、草月流家元・勅使河原宏氏が「鶴仙渓を活ける」というコンセプトのもとデザインした。紅紫色のS字橋の斬新さと周囲の景観が調和している。橋上からの眺めもよい。夜は九谷五彩をイメージしたライトアップが行われる。
 このほかにも、山中座での芸妓連による山中節*の唄や踊り、山中漆器や九谷焼の展示施設など、みどころは多い。
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補足情報

*行基:668(天智7)年~749(天平21)年。奈良時代の僧。百済系の渡来人、高志(こし)氏の出身。和泉の人。法相(ほっそう)宗を学び、諸国を巡って布教。民衆とともに道路・堤防・橋や寺院の建設にあたったが、僧尼令違反として禁止された。のち、聖武天皇の帰依を受け、東大寺・国分寺建立に協力。日本最初の大僧正の位を授けられた。
*長谷部信連(はせべのぶつら):1147(久安3)年~1218(建保6)年。平安後期から鎌倉前期にかけての武将。初め長氏を称すが、後白河院の北面武士となり長谷部の姓を賜る。以仁王に仕えたが、以仁王らによる平氏追討計画が発覚した時、王を逃して捕らえられる。平氏滅亡後、源頼朝より能登国珠洲郡大屋荘を与えられた。1190(建久元)年には幕命を受け、江沼郡司加藤成光を打ち、その功により江沼郡塚谷を加増された。
*松尾芭蕉:奥の細道の旅の途中、1689(元禄2)年に山中温泉を訪れており、9日間滞在した。山中の湯を、有馬・草津と並ぶ「扶桑の三名湯」と讃えた。
*山中座:2002(平成14)年、山中温泉の元湯にオープン。漆塗りの柱や格子戸風の壁面、蒔絵を施した格天井など、漆器職人2,000人の匠の力が集結、山中漆器の粋を集めた格調高い造りが特徴。山中節の唄や芸妓の踊りなど山中伝統の芸能に親しむこともできる。緞帳は、山中温泉の歴史を描いた「山中温泉縁起絵巻」の入浴場面を266色の色糸で表現した作品である。
*鶴仙渓:山中の温泉街に沿って流れる大聖寺川の渓谷で、上流の「こおろぎ橋」から「黒谷橋」までの約1㎞の区間をさす。
*山中節:「忘れしゃんすな山中道を/東ゃ松山西ゃ薬師」。芸者の爪弾く三味にのせて、しんみりと、そして艶っぽさをこめて山中節は歌われる。一説には、北前船で財を築いた瀬越と橋立の船主が、近くの山中温泉に冬の間、湯治に訪れ、彼らが航海中に覚えた民謡「松前追分」を湯の中で歌うのを聞いた浴衣娘(ゆかたべ)が、山中なまりで真似たのが「山中節」の始まりとされ、当時は「湯座屋節」とも呼ばれていたと言われる。船頭衆と浴衣娘の恋を読んだ歌詞も残る。
もとはこの地方の盆踊歌だったものが、お座敷歌となったものである。三味が入ったのは明治の初めで、踊りが入ったのは明治末期のころだという。

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