橋立町の船板住宅群はしたてまちのふないたじゅうたくぐん

石川県南西部に位置し、JR北陸本線加賀温泉駅から北西へ約5km。橋立は、かつて北前船の船主や船頭、船乗りなどが多く住んでいたまちで、日本でも1、2を競う富豪村と呼ばれていた。北前船とは、大坂と蝦夷地(北海道)を結び、瀬戸内海と日本海の各港に寄港して積荷を売買する商売をしてまわった買積船で、近世後半から明治期にかけて盛んに活躍した。大きい船では千石(約150トン)の積載量を持つことから千石船とも呼ばれ、物資だけではなく、各地の文化も運んだといわれる。
 ただし、橋立は北前船の寄港地(港町)ではなく、北前船に従事した人々の居住地*であることから「船主集落」とされている。巨万の富を稼いだ船主や船頭が居住する町並みの特徴の一つは、一軒一軒が独立した大規模な屋敷から構成され、切妻妻入の主屋を中心としたそれぞれの屋敷は周囲に十分な庭などの敷地をもち、隣り合う建物との間に一定の距離をとっていることである。
 また、もう一つの重要な要素は、傾斜地立地*を生かすための石垣である。敷地の高低差をなくすため、盛り土をして石垣で囲んでいる。石垣の石は濡れると青さを増す福井産の笏谷石(しゃくだにいし)が使われている。また、家や蔵、屋敷の塀垣には、北前船に使っていた船板を再利用した縦板が張られており、船喰い虫があけた穴の跡が見られる。さらに、屋根には鉄分を含んだ赤茶色の赤瓦が使われている。当時は茅葺屋根がほとんどで、瓦屋根は富の象徴だった。棟部分に笏谷石を載せた家もある。
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みどころ

橋立町は1872(明治5)年に大火に見舞われ、250戸に及ぶ家屋が焼失し、橋立の大部分をなめつくしたが、当時はまだ北前船の廻船業が盛んであったため速やかに復興し、より豪壮な家屋が再建された。
 「北前船の里資料館」は、1876(明治9)年に、旧北前船主・酒谷長兵衛が建てた邸宅を活用しており、敷地面積は約1,000坪(3,306m2)。30畳の大広間(オエ)には柱に八寸角のケヤキ、巨大な松を使用した梁、秋田杉の一枚板の大戸など、全国各地から運ばれた贅沢な資材が使われている。また、主屋や土蔵には航海道具や船箪笥など、当時の船乗りたちの生活や北前船の歴史を物語る資料が展示されている。建物内部を公開しているもうひとつの「北前船主屋敷 蔵六園」は、同じく酒谷家の分家で、全館紅がら漆塗りになっており、全国から集められた銘石を配した趣のある庭がある。そのなかに蔵六(亀)に似た自然石の滝石があり、それを見た大聖寺藩14代藩主が「蔵六園」と命名したとされる。
 町中の散策路としては、板塀が続く「北前船主屋敷蔵六園」と「北前船の里資料館」を結ぶ「山崎通り」、丘陵地の谷間を通り笏谷石の青い石垣が続く「新町通り」、赤瓦と白山が望める「眺望の通り(サマンダ通り)」などがある。これらの道は、あるものは谷間を通り、またあるものは小高い丘の上を通るなどしてそれぞれに表情が異なり、「北前船という背景のもとに緩やかな統一がなされながら、その独特な地形条件から生まれる景観の多様性こそが重要な特徴」(加賀市橋立の町並み)とされている。なお、加賀市観光ボランティアガイド「加賀あいりすガイド」による町並み案内も行われている(問い合わせ先:KAGA旅・まちネット・0761-72-6678)。
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補足情報

*北前船に従事した人々の居住地:蝦夷地が幕藩体制に組み込まれるのは、松前藩が置かれた1604(慶長9)年以降である。その当時アイヌとの交易を仲介したのは近江商人であり、敦賀や小浜を基地として自分の船(荷所船)を持ち、昆布や鮭などの交易品を本土にもたらして利益をあげた。近江には船乗りがいないので、基地のある若狭や越前、さらに加賀や能登からも船乗りを採用した。そのような関係で橋立にも近江商人の船の水主や船頭となる者が非常に多く、18世紀半ば頃になると、近江商人の援助を受けて自ら船を持つようになるほどに成長した北前船主が橋立でも台頭してきた。船主たちは身内や村人を船頭や船乗りにしたので、村は廻船業で急速に発展した。最盛期には100隻以上の北前船を擁し、1796(寛政8)年の記録では船主34名とされている。なお、船乗りたちの一年は、2月末から3月初めに大坂に向けて出発し、春の彼岸頃に大坂から出帆して瀬戸内海や日本海側の港町で交易しながら蝦夷地に向かう。途中、橋立には大きな北前船が寄港できる港がなかったため、沖から伝馬船で上陸した。蝦夷地からの帰路(上り)は台風を避けてなるべく早く瀬戸内海に入り、各港で蝦夷地の産物を売り回り、11月末から12月はじめに大坂に帰着する。船を船屋に預けて年末近くに橋立に帰り着く。年末の大掃除や正月の準備を整えると山中や山代に湯治に出かけるという生活だった。
*傾斜地立地:橋立の街は高潮などの影響を避けて海岸沿いの丘陵地に造られたため、街路は曲がりくねった坂道である。当然、それに面する宅地も傾斜地となるが、平坦な敷地を確保するために土を盛り周囲を石垣で囲っている。この石垣が敷地を細分化させたり、道路に面して大きく駐車場をつくることを防いでいることから、屋敷の構成を今日までよく守っていることにつながっている。

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