銀座通りぎんざどおり

JR有楽町駅から徒歩5分。東京メトロの銀座線、丸の内線、日比谷線、有楽町線の4線が銀座通り周辺に集結する。銀座は1丁目から8丁目まであるが、メインストリートの中央通りが一般に銀座通りとも呼ばれ、松屋・三越などのデパートのほか、海外の一流ブランドショップや何代も続く老舗などの名店が軒を連ねる、日本有数の繁華街である。一歩裏通りに入るとバー・スナック・飲屋・喫茶店などが細い路地にひしめき、夜になると、ネオンの明りで銀座の夜の顔が華やかに映し出される。銀座通りと交わる晴海通りは、日比谷・有楽町の興行街、築地寄りの歌舞伎座・新橋演舞場などに通じ、人の流れが多い。週末に多くの人でにぎわう歩行者天国は、銀座通り口交差点(銀座1丁目)から銀座8丁目交差点の間、約1,100mで、1970(昭和45)年に日本で初めての試みとなった。
 1612(慶長17)年に幕府は銀貨鋳造所をこの地に置き、現在の銀座通りには両替商が軒を連ねた。銀座役所が寛政年間(1789~1801)に日本橋蛎殻町に移ったのちも、地名として残った。町名として銀座になったのは、1869(明治2)年のことで、このとき新両替町1丁目は銀座1丁目になった。
 銀座界隈は江戸の場末だった。新橋が御府内との境で、銀座は干潟に神田山の土を埋め立てた湿っぽさの残る地。銀座が一変したのは、1872(明治5)年。横浜・新橋間に日本初の鉄道が開通したことによる。外国人居留地の築地と新橋駅の間に位置する銀座を外国風の建物で一変させることにしたのである。その計画を促進したのが、1872年の大火で、木の建築はまかりならぬという理由で、5年をかけてレンガ建築の街並みが完成したが、高価なうえに湿気が多く住みづらいと不評だった。1915(大正4)年ころ、”銀ブラ”がはやった。1923(大正12)年の関東大震災を機に、レンガ建築から近代的建築の街となり、松坂屋と松屋の百貨店、喫茶店、カフェーが数多く進出し、銀座は日本を代表する商店街となった。銀座の象徴である、現在の4丁目の和光の時計塔*は2代目として1932(昭和7)年にお目見えした。最先端の洋装に身を包んだモボ・モガ*と呼ばれる若者たちが通りを闊歩した。当初、銀座とは4丁目までだったが、1930( 昭和5)年に、銀座西が統合されて、銀座は8丁目までに拡大され、銀座八丁という言葉も生まれた。昭和の初め、品川区に初の姉妹銀座*として戸越銀座が誕生している。
 戦後の間もないころまで、銀座は外堀、京橋川、桜川、築地川、三十間堀に取り囲まれ島状の景観を成していたが、1956(昭和31)年以降、高架道路、高速道路の建設により、諸河川は埋め立てられた。数寄屋橋には、大ヒットドラマ「君の名は*」の碑があり、「数寄屋橋ここにありき」と書かれている。銀座を特徴づける柳*について興味深い話がある。
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みどころ

銀座を歩いて楽しいのは、世界の一流店が通りをきらびやかに飾っている一方、老舗の店がしっとりとした雰囲気をつくっている点であろう。かと思うと、高級品と比較的廉価の店が混在していたりもする。大通りを結ぶ細い路地や道路下の店を訪ねる面白さも味わってほしい。5丁目には1878(明治11)年の開校からずっと銀座を見守っている泰明小学校があり、経済産業省の「近代化産業遺産」に指定されている。
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補足情報

*和光:銀座4丁目の角で、銀座の移り変わりを見つめてきた服部時計店(現セイコーホールディングス株式会社)は1881(明治14)年に創業。1894(明治27)年に初代時計塔が建てられたが、大正末期の改装中、関東大震災に見舞われ、工事は一時中断し、9年後の1932(昭和7)年に完成。設計は、東京国立博物館で知られる建築家、渡辺仁。交差点に面した優雅な曲線が印象的なネオルネッサンス様式。
*姉妹銀座:全国各地の銀座通り。戸越銀座以降、戦後まで日本に約430の銀座が誕生したといわれる。
*モボ・モガ:モダンボーイとモダンガールの略 。黒縁のロイド眼鏡 をかけ、ラッパズボンをはき、帽子に蝶ネクタイといった装いのモボたちや、和装から洋装に踏み切り、働きやすいように断髪した”職業婦人”のバスガール、エレベーターガール、タイピストなどのモガたちが銀座を闊歩した。
*君の名は:1952(昭和27)年から1954(昭和29)に、NHKで放送されたラジオドラマ。脚本は菊田一夫作、主題歌は古関裕而作曲。「番組が始まるころになると、銭湯の女湯が空っぽになった」(噂で事実ではないという説がある)といわれるほどの人気番組。映画化され、これも大ヒットとなり、主人公の「真知子巻き」がはやり、ロケ地の雲仙、佐渡、美幌峠が人気観光地になる。
*銀座の柳:銀座通りには、初めは松、桜、カエデ、柳が植えられていたが、枯れる木もあり、1884(明治17)年ころ、柳だけの並木となり、銀座には柳のイメージが出来上がった。ところが東京都が品川から上野までイチョウ並木にする方針に決めたことから、しだいに柳が姿を消すことになった。1921(大正10)年、残りの柳もすべて抜いてしまった。1929(昭和4)年の大ヒット曲「東京行進曲」で”昔恋しい銀座の柳”と歌ったところ、もう一度銀座に柳をと、一部地元負担で1932(昭和7)年に900本の柳を植えて並木を完成した。さっそく歌謡曲「銀座の柳」のなかで、”植えてうれしい銀座の柳”とお礼を歌にした。
関連リンク TOKYO GINZA OFFICIAL(銀座通連合会)(WEBサイト)
参考文献 TOKYO GINZA OFFICIAL(銀座通連合会)(WEBサイト)
「銀座物語」 野口孝一 中公新書 1997
「明治の都市計画」 藤森照信 岩波文庫 1990
「水辺都市」 陣内秀信 朝日選書 1989

2025年06月現在

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