上野恩賜公園のサクラうえのおんしこうえんのさくら

JR上野駅と鴬谷(うぐいすだに)駅の西側に広がる高台の一帯が上野恩賜公園である。上野恩賜公園は、1873(明治6)年の太政官布達によって、芝、浅草、深川、飛鳥山と共に、日本で初めて公園に指定された。ここは、江戸時代、東叡山寛永寺の境内地で、明治維新の際、彰義隊と官軍の戦いで兵火にかかり、そのほとんどを焼失した。明治維新後官有地となり、1924(大正13)年に宮内省を経て東京市に下賜され「恩賜公園」となる。1924(大正13)年不忍池とともに東京市の公園となった。総面積53万1855m2、都市公園としては、日本有数規模を誇る。園内には「上野の西郷さん」で親しまれている西郷隆盛の銅像*や東照宮・寛永寺の諸堂、そして、博物館・美術館・文化会館・大学などの文化施設*、上野動物園などがあり、不忍池の周囲は絶好の散策地となっている。 
 公園内は古くから桜の木が多く、江戸時代から都内随一の花見の名所であった。
 上野の山のサクラは、1625(寛永2)年、寛永寺を創建した天海僧正が吉野から苗木を取り寄せて植えたものである。1632(寛永9)年には、儒学者林羅山が孔子廟を建て、多品種のサクラを植え「桜峯塾」と命名した。1673(寛文13)年、上野の花見は有名になっている記録があり、1682(天和2)年、上野の花見に張り巡らされた幔幕は300を超したとある。上野の山は将軍の菩提寺なので、鳴り物が禁止だったといわれるが、これはほんの一時のことで、どの文献、どの絵をみても、楽器を打ち鳴らして騒いでいる。ただ、大騒ぎができるのは、門が開いている明け六つ(午前6時ころ)から暮れ六つ(午後6時ころ)までに限られていた。夜桜を楽しむには、墨堤から吉原へと足をのばすのが、一つのコースであった。
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みどころ

現在の上野公園のサクラは、50種以上、約800本が咲き誇り、週末には1日20万人が押し寄せる。カラオケ・楽器は使用禁止。およそ1000個のぼんぼりの明かりに照らされる夜桜も人気がある。サクラの木の育成には、地元の人々を中心に、サクラに興味を抱く人々が集う「上野桜守の会」と管理責任者の東京都があたっている。
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補足情報

*西郷隆盛の像:身長370.1cmの大きい像は高村光太郎の父、高村光雲の作。西郷隆盛は、1877(明治10)年の西南の役で、天皇や朝廷の朝敵となり亡くなるが、5年後に許されて朝敵ではなくなる。1889(明治22)年には大日本帝国憲法発布に伴う大赦で復権する。大赦の翌年、募金運動による寄付金によって銅像が制作され、1898(明治31)年に除幕式行われた。募金の際は、明治天皇も金一封を出している。どこにつくるか。皇居の近くに建立したかったが、まだ周囲の反感も強かったので、戊辰戦争の一つである上野戦争において、黒門口の戦にて薩摩兵が奮戦したゆかりの土地ということから上野が選定された。像の傍らにいる犬は、隆盛のお気に入りの薩摩犬、ツンがモデルになっている。
*文化施設:東京国立博物館、東京文化会館、国立科学博物館、国立西洋美術館、東京都美術館など。
関連リンク 上野恩賜公園(東京都建設局)(WEBサイト)
参考文献 上野恩賜公園(東京都建設局)(WEBサイト)

2025年06月現在

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