神田明神(神田神社)かんだみょうじん(かんだじんじゃ)

JR御茶ノ水駅の北東、聖橋を渡り、本郷通りを挟んで湯島聖堂のはす向かいに位置する。正式名称は神田神社だが、江戸時代から現代にいたるまで、神田明神と呼ばれ、親しまれている。江戸開府以前の同社については定かではないが、社伝では730(天平2)年の創建*1と伝えられる古社で、当初は豊島郡芝崎村(現在の千代田区大手町1丁目・将門塚付近)にあったとされ、当地の産土(うぶすな)神だったと考えられている。その後、平将門*2の霊を鎮めるために同所に首塚「将門塚」が建てられ、その後、1309(延慶2)年に祭神として合祀したという。1601(慶長6)年*3江戸城拡張のために同地から駿河台に移り、さらに1616(元和2)年に現在地に移転した。こうした経緯から江戸開府以降は、江戸の総鎮守として徳川幕府や城下の「江戸っ子」からも崇敬を集め、大いに栄えた。明治の神仏分離に伴い、正式名称としては「神田神社」となったが、現在でも「神田明神」としてその名は広く知られ、東京都心の神田、日本橋、秋葉原、大手丸の内、旧神田市場、豊洲魚市場など108町会の氏神となっている。現在の祭神は、大己貴命(大国様)、少彦名命(えびす様)、平将門命である。
 高台に立つ現社殿は1934(昭和9)年の再建。鉄筋コンクリート造の権現造で、朱塗りの本殿、拝殿が映える。境内には江戸神社*4、魚河岸水神社、三宿・金刀比羅神社、 出雲神社などの摂社、末社のほか、神楽殿、鳳輦神輿奉安殿、銭形平次の碑などがあり、本殿に向かって左手には4階建ての神田明神文化交流館「EDOCCO」*5が建つ。門前には麹、味噌、甘酒、納豆などを売る江戸時代からの老舗がある。
 年中行事としては、5月中旬の土・日曜に催される盛大な神田祭が知られている。
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みどころ

江戸後期の地誌「江戸名所図会」には「當(当)_境内常に賑しく、詣人たゆることなし。茶店各崖に臨んで。遠眼鏡などを出し手風景を翫(もてあそ)ぶのなかだちとす。ことさら近來は瑞牆(垣)に櫻樹をあまた植ゑければ、彌生の頃最美觀たり」と記しており、江戸時代から参詣者が絶えない神社で、高台の縁に鎮座するので眺望良かったことが分かる。現在は残念ながら、周辺にビルが建ち並び、その景観を失なったが、家庭円満、商売繁盛、除災厄除を祈願する参詣者は相変わらず多い。現代の江戸っ子たちも血が騒ぐ神田祭などの年中行事はもちろんのこと、 「伝統の継承のみならず、多様な文化や価値観を受け入れ、新たな文化を創出する」神田明神文化交流館を境内に建設するなどして、かつて同様に多種多様な人々が集り、交流することができる神社となっている。
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補足情報

*1 創建:創建については、社伝では出雲氏族の真神田臣(まかんだおみ)によるとしている。他の説では、もともと全国各地にあった伊勢神宮の神田(みとしろ)がこの地にあり、これに洲崎明神(現在は千葉県館山市洲崎神社)から勧請したなど、諸説ある。いずれにしろ、「神田」の社号は、遷座してもそのまま引き継がれた。
*2 平将門:?~940 平安中期の武将。祖父は恒武平氏の祖高望王、父は鎮守府将軍平良将。下総を本拠に勢力をふるった。父の遺領をめぐる一族の紛争が天慶の乱(平将門の乱)に発展、一時は関東を制圧して親皇と称したが、平貞盛・藤原秀郷連合軍と戦い敗死。死後は庶民の守護神として信仰を集めた。神田明神に祀られる経緯については諸説あるが、同社境内にあったとされる日輪寺(現在は台東区西浅草)に関わりがあるとされ、江戸後期の同寺の「文政寺社書上」(寺社の由来などを幕府に報告したもの)には「嘉元年中(1303~05年)遊行二代(時宗の2世上人)他阿真教(たあしんきょう)上人、東国化益の時、村民等凶霊(平将門)を宥(なだ)めん事を乞ふ…中略…上人に日輪寺に住せしむ。然してより天台宗を改め念仏道場とす。因て世に柴崎道場と号せり。彼凶霊は、境内鎮守の明神に配祀し、神田一郷の産神(うぶすな)とし、隔年の祭礼怠らず。今の神田大明神是なり」としている。
*3 1601(慶長6)年:最初に遷座した当時の神田明神の状況は、1960年の千代田区史では「『御入国の節に地内に大木共生茂り、其中に宮井これ有り、毎年九月祭礼の節は、件の木立の中に昇(幟)を立ちならべ、近在町方よりの栗柿を始め、種売買物を持出、人たち多く賑やかにこれ有り候出・・・(下略)』(落穂集追加:江戸中期の聞き書き)などというのをみても、その素朴な様子がうかがわれる」としているが、一方ではすでに開府前から近在の住民が祭礼などに集まっていたことも分かるとしている。
*4 江戸神社:江戸城築城の遥か前の702(大宝2)年に神田明神と同様に江戸城内となる場所に創建され、江戸のもともとの地主神だとされる。1601(慶長6)年に神田明神が神田駿河台に遷座したときに同時に遷り、1616(元和2)年にも神田明神とともに現社地に遷座したという。中世には江戸氏や太田氏などの信仰が篤かったという。江戸時代になると南伝馬町(現在の京橋付近)の住民の信仰が篤かったことから「南伝馬町持天王」「天王一の宮」などと称され、1605(慶長10)年には、南伝馬町に御旅所が設けられ、神田明神から神輿が渡御したという。明治に入り、一旦、神社名を「須賀神社」に改号したが、明治中期に至り「江戸神社」と再び改めた。歴史的な経緯から言えば、江戸の総鎮守の神田明神に吸収されていったといえよう。
*5 神田明神文化交流館「EDOCCO」:1階は江戸グッズ、モダン神具、神酒、縁起物などを置く土産品店とカフェ、2階・3階は日本文化を発信するホール、地下1階は食事をしながら伝統芸能を鑑賞できるスタジオなどがある。

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