神田祭
神田祭は神田神社の例祭で、例大祭などの神事は、毎年5月中旬に行われ、神輿渡御などがある神幸祭(本祭)は山王祭と交互に隔年で催される。本祭は、1日目の境内での「鳳輦*神輿遷座祭」からはじまり、2日目に氏子町会神輿神霊入神事、3日目(日曜日に設定される)に鳳輦・神輿の氏子町内巡行、その翌々日に前斎神事(宵宮)、最終日に例大祭の神事などが行われる。
神田祭がもっとも盛り上がるのは、隔年で催される神幸祭(本祭)。当日は午前8時に神社を鳳輦・神輿行列が出発し、途中で加わる附け祭(つけまつり)*も合わせ約300m、およそ2,000名の祭礼行列が、神田、日本橋、大手・丸の内、秋葉原など氏子108町会の町内、約30kmを練り歩く。
祭の起こりについては定かではないが、社伝では、江戸開府ののち、徳川家康が会津征討や関ヶ原の戦いに際し、戦勝を祈願したことに因るとされている。1960年発行の「千代田区史」によれば、神田祭の場合、「大祭のはじめは寛永十一年(一六三四)六月からであつたようで(『輯要家伝書紀』)最初は両社(日枝神社)とも別個に毎年行つていたらしい」とし、「天和元年(一六八一)」から氏子の負担を考え、幕府の指示により、神田祭と山王祭が隔年で催されるようになったという。さらに神田祭の祭礼行列が初めて江戸城内に入ったのは1688(元禄元)年とされ、以降、将軍による謁見も始まったいう。神田祭は、日枝神社の山王祭とともに「天下祭」と称され、盛大に行われていたことは、江戸後期の絵巻「神田明神祭禮繪卷」にも描かれている。
明治に入っても山車40台が祭礼行列に加わるなどしていしたが、都市の近代化に伴い、明治後期には祭日が9月から5月に変更され、山車も出されなくなり、大正期には神輿渡御が中心となった。第二次世界大戦中は一時中断となったが、戦後、神輿や鳳輦が徐々に復活整備され、附祭の山車なども巡幸するようになり、盛大さを取り戻しつつある。
神田祭がもっとも盛り上がるのは、隔年で催される神幸祭(本祭)。当日は午前8時に神社を鳳輦・神輿行列が出発し、途中で加わる附け祭(つけまつり)*も合わせ約300m、およそ2,000名の祭礼行列が、神田、日本橋、大手・丸の内、秋葉原など氏子108町会の町内、約30kmを練り歩く。
祭の起こりについては定かではないが、社伝では、江戸開府ののち、徳川家康が会津征討や関ヶ原の戦いに際し、戦勝を祈願したことに因るとされている。1960年発行の「千代田区史」によれば、神田祭の場合、「大祭のはじめは寛永十一年(一六三四)六月からであつたようで(『輯要家伝書紀』)最初は両社(日枝神社)とも別個に毎年行つていたらしい」とし、「天和元年(一六八一)」から氏子の負担を考え、幕府の指示により、神田祭と山王祭が隔年で催されるようになったという。さらに神田祭の祭礼行列が初めて江戸城内に入ったのは1688(元禄元)年とされ、以降、将軍による謁見も始まったいう。神田祭は、日枝神社の山王祭とともに「天下祭」と称され、盛大に行われていたことは、江戸後期の絵巻「神田明神祭禮繪卷」にも描かれている。
明治に入っても山車40台が祭礼行列に加わるなどしていしたが、都市の近代化に伴い、明治後期には祭日が9月から5月に変更され、山車も出されなくなり、大正期には神輿渡御が中心となった。第二次世界大戦中は一時中断となったが、戦後、神輿や鳳輦が徐々に復活整備され、附祭の山車なども巡幸するようになり、盛大さを取り戻しつつある。

みどころ
江戸後期の「江戸名所図会」では、「祭禮(礼)隔年九月十五日 江府神社の祭禮(礼)は、永田馬場山王(山王祭)を第一とし、當(当)社これに次ぐ。いづれも公(おおやけ)よりの沙汰として、練物・車樂(だんじり)等、善盡(尽)し、美を尽し町中を引渡す、是一時の荘観也。此日都下の貴賤桟敷をかけて見物す。」としており、江戸を挙げての公許の大祭だったことがわかる。
明治期以降、衰微の時期もあったが、近年、神社、氏子の町会などが復活の努力を重ねてた結果、再び、108町会の街角で各々の氏子町会の神輿が町内を渡御し、山車も出るようになった。クライマックスは何と言っても「神幸祭神輿宮入」で、附け祭の行列や大小200基を超える神輿が神社境内に入ってくる様は、沿道の観覧者も含め大いに賑わい、盛り上がる。
明治期以降、衰微の時期もあったが、近年、神社、氏子の町会などが復活の努力を重ねてた結果、再び、108町会の街角で各々の氏子町会の神輿が町内を渡御し、山車も出るようになった。クライマックスは何と言っても「神幸祭神輿宮入」で、附け祭の行列や大小200基を超える神輿が神社境内に入ってくる様は、沿道の観覧者も含め大いに賑わい、盛り上がる。

補足情報
*鳳輦(ほうれん):天皇が行幸の際に座乗する専用の乗り物のこと。屋形の屋根の上部に鳳凰像を飾り、前面と側面に御簾などをかけたもので、全体は黒漆塗り。
*附け祭(つけまつり):その時代の流行を取り入れた踊屋台や曳き物、仮装行列など、趣向を凝らした出し物のこと。曳き物と呼ばれた巨大なはりぼての人形や、様々な衣装を身にまとって、流行の音楽を奏でながら行列に参加する踊り子などのことで、毎回、違う出し物が出されたため、多くの見物人を楽しませた。江戸時代の代表的なものとしては「大江山凱陣」「大鯰と要石」「牛若丸奥州下り」「朝鮮人来朝の学び」などがあり、「神田明神祭禮繪卷」や「江戸名所図会」にも描かれている。現在も時代に合わせ、飾り付けをした山車などが巡幸に加わり、人気を博している。
*附け祭(つけまつり):その時代の流行を取り入れた踊屋台や曳き物、仮装行列など、趣向を凝らした出し物のこと。曳き物と呼ばれた巨大なはりぼての人形や、様々な衣装を身にまとって、流行の音楽を奏でながら行列に参加する踊り子などのことで、毎回、違う出し物が出されたため、多くの見物人を楽しませた。江戸時代の代表的なものとしては「大江山凱陣」「大鯰と要石」「牛若丸奥州下り」「朝鮮人来朝の学び」などがあり、「神田明神祭禮繪卷」や「江戸名所図会」にも描かれている。現在も時代に合わせ、飾り付けをした山車などが巡幸に加わり、人気を博している。
2025年06月現在
※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。