原宿はらじゅく

原宿といえば「カワイイ」文化の発祥地であるとともに、「ストリートファッション」の聖地であり、アニメ・キャラクターの「コスプレ」文化を楽しめる町。また、インスタ映えする原宿グルメを扱う店には行列が絶えず、世界からも注目を集めるトレンド発信地となっている。
 しかし、「野原の宿」を意味する地名が示すように、江戸時代初期は千駄ヶ原という野原で、相模國から奥州へ通じる鎌倉街道の宿場町だった。1919(大正8)年に明治神宮が創建されると表参道が整備され、終戦後は米空軍の兵舎「ワシントンハイツ」が建ち、表参道沿いにはキディランドやオリエンタルバザーなど米軍将兵とその家族向けの店が並ぶようになり、現在の原宿の基礎が築かれた。
 1964(昭和39)年、代々木体育館が東京オリンピックの会場となると、ワシントンハイツの跡地に選手村が建設され、外国文化が流入した。1960年代後半にはブティックやおしゃれな喫茶店などが相次いで開店。70年代にファッション雑誌「anan」や「non-no」で原宿が紹介されると「アンノン族」であふれ、原宿は若者のファッションの中心地として全国に知られるようになった。その後、1978年(昭和53)年のラフォーレ原宿の開業で、ファッションの流行発信地の座を確立する。70年代後半には派手なファッションでダンスを踊る「竹の子族」も出現。90年代以降は海外の有名ブランドの旗艦店が続々とオープンし、明治通りの東側を並行に走るキャットストリートには新たなトレンドを生む店が並んだ。それに伴い、明治通りと表参道北東側、神宮前3~4丁目界隈は「裏原宿(ウラハラ)」と呼ばれるようになり、パンクやヒップホップなどの音楽やスケーター文化と融合したファッションを扱う店がひしめくようになる。
 2006(平成18)年には、同潤会青山アパートの跡地に表参道ヒルズが誕生。商業施設と住居スペース、駐車場からなる表参道ヒルズは建築家安藤忠雄氏の設計で、土地の傾斜や表参道のケヤキ並木との景観を重視した建物は、表参道の新たな顔となった。2020(令和2)年には、都内最古の木造駅舎として親しまれた原宿駅が、東京のトレンドを発信する複合施設「WITH HARAJUKU」を有する駅として生まれ変わり、2024(令和6)年4月には、明治通りと表参道の交差点に東急プラザ原宿「ハラカド」が誕生。これは1960年代にトップクリエイターたちが集う文化創造の拠点「原宿セントラルアパート」の文化を継承し、さらに発展させようという斬新な商業施設である。
 時代と共に変わりながらも、原宿は若者のファッション文化発信地として世界の注目の的であり続けている。
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みどころ

かつて若者の街といえば新宿だったが、1973(昭和48)年の渋谷パルコの開業により、若者は渋谷駅周辺に移り、その後、渋谷駅周辺から原宿へと若者の街は広がっていった。1964(昭和39)年の東京オリンピックの際に、現代々木公園に選手村ができると、その周辺の道路が整備されて近代的な街になった。
 原宿は首都圏の買い物客だけでなく、修学旅行生のほか、関東近県や外国からの東京旅行の目的地ともなっている。
 1970年代後半に「竹の子族*」と呼ばれる若者が集まり話題となった長さ350mの竹下通りは、狭い通りに小さな店舗が密集する様は今も変わらず、現代においても10代、20代の若者で賑わっている。特に週末や、春・夏・冬休みともなれば、狭い通りは、学生や子供たちで身動きができないほどの賑わいになる。裏原宿には、1990年代後半、バブルが弾けてから空き店舗に若者たちの出店が相次ぎ、ストリート系ファッションの聖地として、海外にも知られるようになった。しかし、2000(平成12)年頃から海外ブランドの日本上陸やファストファッショの流行で、衰退。コロナ禍以降は、Z世代を中心に若者たちがクリエイティビティー発揮する場に変貌しつつある。
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補足情報

*竹の子族:1977(昭和52)年の夏に原宿の歩行者天国が始まったことを機に、出現した派手なファッションで踊る若者たちの名称。トレードマークのハーレム・スーツが、1979(昭和54)年に開業した「ブティック竹の子」のオリジナルであったことから、その名がついた。1998(平成10) 年歩行者天国が中止となり、自然消滅した。
関連リンク GO TOKYO 東京の観光公式サイト(WEBサイト)
参考文献 GO TOKYO 東京の観光公式サイト(WEBサイト)

2025年06月現在

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