鑁阿寺
鑁阿寺は足利學校跡の北側に隣接する。本尊が大日如来であるところから、市民の間では「大日様」とも呼ばれて親しまれている。
1196(建久7)年、足利義兼が鑁阿と号し、その邸内に持仏堂を建てたのが始まりとされる。それ以後、足利家累代の氏寺として栄え、鎌倉時代には堀の外縁部に12の支院を配し、一山十二坊へと発展した。江戸時代においても徳川幕府の保護を受けた。
鑁阿寺は、国の指定史跡の足利氏宅跡にあり、境内は約200m四方、ほぼ正方形で、四方に堀と土塁を巡らし、4面に門を構え、正面には反橋、ほかの3面に土橋を設けている。杉や桧の老樹の生い茂り、足利義氏が1234(天福2)年に再建したという国宝の本堂(大御堂)*や、重要文化財の鐘楼*・経堂*など、その他多宝塔*・楼門などが建つ。境内は、中世の地方豪族、足利氏宅の邸宅の構えを知るうえの貴重な資料となっている。
1196(建久7)年、足利義兼が鑁阿と号し、その邸内に持仏堂を建てたのが始まりとされる。それ以後、足利家累代の氏寺として栄え、鎌倉時代には堀の外縁部に12の支院を配し、一山十二坊へと発展した。江戸時代においても徳川幕府の保護を受けた。
鑁阿寺は、国の指定史跡の足利氏宅跡にあり、境内は約200m四方、ほぼ正方形で、四方に堀と土塁を巡らし、4面に門を構え、正面には反橋、ほかの3面に土橋を設けている。杉や桧の老樹の生い茂り、足利義氏が1234(天福2)年に再建したという国宝の本堂(大御堂)*や、重要文化財の鐘楼*・経堂*など、その他多宝塔*・楼門などが建つ。境内は、中世の地方豪族、足利氏宅の邸宅の構えを知るうえの貴重な資料となっている。
みどころ
約200m四方の寺域に、東西南北の4面にそれぞれ門があり、アクセスが容易である。
寺の歴史、境内の大きさ、本堂の大きさ、住民とのつながりの深さは特筆される。また、境内の大イチョウは、秋には絶好の被写体となる。
鑁阿寺の北門からさらに北へ『樺崎八幡宮』までの道が、「奥の院通り」として、近年、美しく整備されたので、のんびりと散策を楽しむのもよい。(溝尾 良隆)
寺の歴史、境内の大きさ、本堂の大きさ、住民とのつながりの深さは特筆される。また、境内の大イチョウは、秋には絶好の被写体となる。
鑁阿寺の北門からさらに北へ『樺崎八幡宮』までの道が、「奥の院通り」として、近年、美しく整備されたので、のんびりと散策を楽しむのもよい。(溝尾 良隆)
補足情報
*大御堂(本堂):入母屋造りの折衷様で、五間四面の堂々たる規模。焼失後、1299(正安元)年に再び造営。本尊は、鑁阿寺が大日さんと親しまれる木造大日如来坐像。
*鐘楼:3間、2間の入母屋造。鎌倉時代の建造。
*経堂:五間四面・宝形造りの唐様。1196(建久7)年に創建後、1407(応永14)年と1708(宝永5)年に修築。堂内には、木造足利歴代将軍坐像15体が安置されている。
*多宝塔:1709(宝永6)年の再建。
*12支院は、明治の廃仏毀釈ですべて廃される。
*年中行事:節分鎧年越*(2月節分)、春まつり(5月3~5日)、秋まつり(11月3~5日)。
*節分鎧年越:老若男女による約200名の鎧武者が、市街の西端にある常念寺から中央にある鑁阿寺まで練り歩いた後、豆まきを行う。
*鐘楼:3間、2間の入母屋造。鎌倉時代の建造。
*経堂:五間四面・宝形造りの唐様。1196(建久7)年に創建後、1407(応永14)年と1708(宝永5)年に修築。堂内には、木造足利歴代将軍坐像15体が安置されている。
*多宝塔:1709(宝永6)年の再建。
*12支院は、明治の廃仏毀釈ですべて廃される。
*年中行事:節分鎧年越*(2月節分)、春まつり(5月3~5日)、秋まつり(11月3~5日)。
*節分鎧年越:老若男女による約200名の鎧武者が、市街の西端にある常念寺から中央にある鑁阿寺まで練り歩いた後、豆まきを行う。
関連リンク | 鑁阿寺(WEBサイト) |
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参考文献 |
鑁阿寺(WEBサイト) 『栃木県の歴史散歩』山川出版、2007年 |
2022年06月現在
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