弘道館こうどうかん

1841(天保12)年、徳川斉昭*が当時、内憂外患だった時勢に対応するために水戸城三の丸に創設*した藩校。ここで尊王攘夷運動に活躍した人材が育成された。『弘道館記』に示されたごとく神儒合一・文武不岐・学問事業の一致を目的に水戸学*の振興・尊王攘夷論が展開された。儒学・武道のほかにも医・薬・天文・地理などの実学も重んじられ、学問に終わりがないということから卒業制度を設けないなど当時としては革新的な学校であった。約10.5万m2におよぶ敷地内には正庁・文館・武館・医学館などの建物や調練場があり、偉容を誇った。
 1868(明治元)年に主な校舎が焼失し、現在正門・正庁*・至善堂(しぜんどう)*が残るだけである。2011(平成23)年の東日本大震災においても甚大な被害を受けたたものの、3年の歳月をかけ修復、復旧した。弘道館を含めて周辺は弘道館公園になっており、孔子廟、鹿島神社、学生警鐘、八卦堂などの関連施設が点在し、約60品種800本の梅も植えられ偕楽園とともに水戸の梅の名所でもある。
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みどころ

創設時の建築物としては正門・正庁・至善堂が残されており、当時の藩校の様子を垣間見ることができる。
 日本の激動期であった江戸末期、藩主徳川斉昭の先見性により藩校として創設され、文武、民生など多面的で先進的な取り組みがなされる一方、明治維新という大転換点の思想的な源流のひとつとなった場所でもあり、歴史への興味を広げてくれる。
 観光客は、弘道館前と三の丸駐車場を利用することになる。駐車場の利用案内や弘道館までの誘導サインについては一層の充実が求められるが、インターネット、現地標示、「水戸学の道」散策マップ等を効果的に活用しながら、新しく復元された水戸城大手門や北柵御門など弘道館周辺も含めて楽しみたい。(志賀 典人)
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補足情報

*徳川斉昭:1800(寛政12)~1860(万延元)年。水戸藩9代藩主。諡は烈公。藤田東湖らの人材を登用し、文武の奨励、質素倹約の強化、殖産興業などの藩政改革を断行。一時謹慎させられたが、ペリー来航後、幕政に参与し、軍制・海防の改革、強硬な攘夷論を主張した。しかし、14代将軍の継嗣問題で井伊直弼と対立し、安政の大獄に連座、国許永蟄居を命じられ、そのまま死去。
*創設:弘道館の建設は、1840(天保11)年に着工、1841(同12年)7月に一応竣工し、8月1日に仮開館した。1843(天保14)年には医学館を新設。仮開館としたのは、学則など制度上の不備や孔子廟への孔子神位の安置などが済んでいなかったことによる。本開館は仮開館から15年後の1857(安政4)年。
*水戸学:「大日本史」編さんに伴い、史料収集・編纂事業を行うとともに国学・天文暦学・数学・地理・神道・兵学など多面的な研究を行った。この編纂、研究事業のなかで育まれた思想等を水戸学と呼ぶ。水戸学が高まりをみせた時期は二度ある。前期は2代藩主徳川光圀が安積澹泊(あさかたんぱく)・栗山潜鋒(くりやませんぽう)・三宅観瀾(みやけかんらん)ら朱子学者を集めて、『大日本史』編纂に着手したときで、国史研究を通じて、天皇崇敬を基礎に徳川幕府の支配を正当化して封建秩序の確立を意図したものである。後期は外国船来航などの事態が発生しその処理に幕府が苦慮するなど、封建体制の危機に直面した9代斉昭の時代である。政治の世界にこの学問が実践に移され、尊王攘夷が唱えられた。藤田幽谷・東湖父子・会沢正志斎などの思想が幕末の志士に大きな影響を与えた。しかし尊王攘夷運動が幕藩体制を否定し、天皇擁立による討幕運動へと発展したため、水戸学は政治運動に対する拠点を失う一方、水戸藩内の抗争もあって思想的影響力は衰えてしまった。
*正庁:質実剛健な建物で玄関正面に斉昭直筆の「弘道館」の額が掛かる。学校御殿とも呼ばれ、藩主重臣臨席の上、試験や諸儀式がなされた。正門とともに国の重要文化財に指定されている。
*至善堂:藩主の休息所。公子の教育の場にも用いられた。明治維新の際、徳川慶喜が恭順の意を表してここで謹慎した。国の重要文化財。