筑波山神社つくばさんじんじゃ

筑波山の中腹、老杉に包まれた境内に大きな鈴が印象的な拝殿をはじめ境内社が並ぶ。本殿は男体山と女体山の山頂付近にある祠で古代の山岳信仰を今も伝えており、2峰寄り添う姿は男女陰陽・夫婦和合の神にふさわしい。
 延喜式内名神大社に数えられた格式ある社だが、平安時代に僧徳一*によって知足院中禅寺が開かれ、筑波の神は筑波両大権現と呼ばれて神仏習合した。東国経営の要所であったところから、皇室、公家、武家の信仰も篤く、江戸幕府の歴代将軍も江戸城の鬼門にあたるとして崇敬した。三代将軍家光が1633(寛永10)年に寄進した、境内社の日枝神社、春日神社、厳島神社の本殿などは現在も境内に遺されている。しかし明治の神仏分離令のため寺院は廃され、筑波山神社のみとなった。
 現在の拝殿は1875(明治8)年に中禅寺本堂跡地に造営されたものである。随神門から神橋、石鳥居周辺には門前町が広がり、かつての繁栄を偲ばせる。また、土日、祝日には、随神門周辺で筑波山名物のひとつである「ガマの油口上」*の実演が催される。
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みどころ

筑波山の南面が神域という広大な神社であるため、神社の歴史や信仰の深さについて、単に社殿など建物だけではなく、森厳な原生林や本殿への山道など周辺環境からも感じ取ることができる。
 皇室、公家、武家からの信仰を集めた神社である一方、庶民からも篤い信心を集めていたため、かつては門前町や「つくば道」といわれる参詣道も賑わいを見せていたが、いまもその面影を残す町並みや景観(北条・神郡・小田地区等)が神社周辺に多い。(志賀 典人)
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補足情報

*徳一:生没年不詳。一説に藤原仲磨呂の子といい、興福寺で法相宗の学を修め、東大寺に住んだ。有名な天台宗の最澄との論争ののち、東国へ流され、筑波山の神宮寺であった中禅寺などを開いた。
*ガマの油の口上:「ガマの油」は戦国時代から傷薬として使われ始め、中禅寺光誉上人が大坂冬の陣・夏の陣で従軍し、負傷者を癒したことから全国に広まったという。口上は、1753(宝暦3)年に筑波山麓新治村の農民出身の永井兵助が江戸への行商の手段として考え出したと言われている。