新宮熊野神社(長床)しんぐうくまのじんじゃ(ながとこ)

JR磐越西線喜多方駅の南西約4kmにある。社伝によると、1055(天喜3)年源頼義、義家*親子が「前九年の役」*で陸奥征討の途中、現在の会津若松市河東町に熊野三社を勧請して創建し、「後三年の役」*で再訪した義家が現在地での造営を命じ、1089(寛治3)年に遷座したと伝えられる。
 大イチョウを前にした拝殿は長床*と称し、棟高11.3m、間口27.3m、奥行き12.1m、壁面はなく吹き抜けで44本の列柱で支えられた茅葺きの大堂である。平安末期あるいは鎌倉初期に建立されたとされるが、1611年(慶長16)年の会津大地震により倒壊し、1614(慶長19)年に旧材を利用し再建された。現在の長床は、1974(昭和49)年に解体修理し、旧規が判明した部分を取り入れ、できる限り当初の姿に復元したものである。
 本殿は、長床の背後、石段を登った高台に熊野三社が鎮座する。参道脇には宝物館がある。
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みどころ

大鳥居の左横にケヤキの大木、長床の左前にイチョウの大木(樹高約37m、幹回り約8m、樹齢800年余り)があり、晩秋にはイチョウの黄葉が散り、長床を映えさせる様は神々しさを感じさせる。長床は、吹き抜けで磨き上げられた44本の列柱が壮観。
 江戸後期に編纂された『新編会津風土記』にも拝殿について「鎮座以来ノ拝殿有テ漸漸ニ頽破セシカハ舊材ヲ用テ修補セシトテ今ニ結構巨宏ナリ」とし、長床前のイチョウについても「拝殿ノ東ニアリ當社開基ノ頃ヨリノ古木ナリ」と記している。長床には昇殿できるので、ゆっくりと神社の歴史に思いを馳せることができる。
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補足情報

*源頼義・義家:頼義(988~1075年)は1030(長元3)年、平忠常の乱平定のため上総に下り、その功で相模守、常陸介となる。1051(永承6)年には、前九年の役に陸奥守として派遣され、ついで鎮守府将軍となった。義家(1039~1106年)は頼義の長男で八幡太郎とも呼ばれた。前九年の役の功で出羽守、後三年の役では陸奥守、鎮守府将軍としてこれを鎮定。東国に源氏の勢力を根付かせた。
*前九年の役:1051~1062年 陸奥6郡を族長制により支配していた安倍頼時が勢力拡大を図ったため、1051(永承6)年、国府との間で戦いが始まり、源頼義に陸奥守、鎮守府将軍を兼務させ一旦は収束したものの、1056(天喜4)年に再び戦いは再燃。頼義は苦戦が続くものの、1062(康平5)年に安倍頼時の後継者安倍貞任らを討ち終結した。
*後三年の役:1083~1087年 奥羽の豪族の清原氏が起こした反乱。義家がこれを平定した。
*長床:神社の本殿の前方の細長い建物を指す。拝殿のみならず、修験者の宿泊、参籠場所としても使われることがあったと言われている。