南湖公園なんここうえん

南湖公園は、JR東北本線白河駅の南2.5kmにある。南湖は、天明の飢饉ののち、白河藩主松平定信*が1801(享和元)年に完成させた周囲約2kmの湖で、湖畔にサクラ・カエデ・マツなどを植え、「士民共楽」という理念のもと身分を問わず親しめる場所とした。文化年間(1804~1818年)には、「関の湖」、「共楽亭」、「千代松原」など南湖十七景*を選び、それらを題材に詠まれた和歌や漢詩を石に刻ませた。現在も共楽亭の近くにその石碑が残っている。
 また、南湖の名は、「南湖秋水夜無烟」という、中国唐代の詩人李白の詩からとったものともいわれる。南湖は優れた景勝地であると同時にその築造はさまざまな目的をもって行われた事業でもあった。南湖の築造は、飢饉で疲弊した人々を雇用する公共事業として行われ、南湖の湖水を灌漑(かんがい)用水に利用し新田を開発し、その収益は藩校立教館の経営資金に充てられたという。また、藩士の水練や操船の訓練にも利用されたとされる。
 1924(大正13)年、定信の南湖築造の理念や優れた景勝地であることが評価され、国の史跡及び名勝に指定された。現在も、湖畔にはアカマツの古木の林が広がり、サクラの名所でも知られ、湖上には御影の島が浮かぶ。公園の北東には、日本庭園翠楽苑*や松平定信を祀る南湖神社*があり、南湖神社の境内には定信遺愛の茶室松風亭蘿月庵(らげつあん)が現存する。南湖公園の北西側には南湖森林公園*が広がる。
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みどころ

明治・大正の紀行作家大町桂月は「老松路に横はり、幽趣人に逼る。幾艘の小端艇岸邊に横はり、鳰點々蕁菜の間に浮沈す…中略…樂翁公(松平定信)は江戸時代の賢相なるが、一方には能く白河を治めたり。南湖の如きも、もとは沮洳の地にて、何の役にも立たず。何等の風致も無かりしが、樂翁公之を修理して、一方に五十町歩の南湖を得、一方に百町歩の田を得たり。更に龍田の紅葉、嵐山の櫻を移植し、松を植ゑ、共樂亭を築きて、其の名の如く、士民と共に樂めり」と記し、定信の偉業を称え、南湖の景勝を愛でている。
 人工湖だが、開放感があり、湖畔の随所に松の林が配され、気持ちの良い散策路が続く。随所に景勝の地が設けられ、湖上に浮かぶ「御影の島」や周囲の山、緑を背景にして、飽きの来ない美しい景観に出合う。那須連峰や関山を眺めながら湖上ではボート遊びが楽しむことができる。湖畔一周の遊歩道があり、日本庭園、南湖神社やおしゃれなカフェが建ち並ぶところもあり、のんびりとした時間を過ごすことができる。松平定信の偉業が時代を超えて「共楽」を提供してくれる。
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補足情報

*松平定信:1758(宝暦8)~1829(文政12)年。12代白河藩主。号は(白河)楽翁。8代将軍徳川吉宗の子、宗武を初代とする田安徳川家から養子に入り、1783(天明3)年に白河藩主となる。1787(天明7)年に老中となり、1793(寛政5)年に老中を退き、その後は藩政に専念した。
*南湖十七景:松平定信自ら南湖に「関の湖(南湖)」・「鏡の山(明鏡山)」・「共楽亭」・「千世の堤(使君堤)」・千代松原(一字松)」などの17の景勝の地を選び、諸国の大名・公家・文人にこれら景勝の和歌・漢詩を求め、「南湖十七景詩歌碑」を建てた。十七景には和名と漢名がそれぞれ付けられている(例えば「関の湖」は和名、「南湖」は漢名)。さらに定信は湖の北西畔の景勝地「鏡の山」には「士民(武士と庶民)」ともに楽しむという意味を込め、茶亭「共楽亭」を設け庶民にも使用を許した。現在、南湖地内には南湖開鑿(かいさく)碑をはじめ、定信の和歌碑、記念碑、十七景の場所を示した石柱などが多数点在している。「鏡の山(明鏡山)」では松平定信自身が「湖の ここもかかみの 山なれや こころうつさぬ 人しなけれは」と詠み、秋田藩儒者村瀬栲亭が「使君隄作南湖出 共楽亭開壓酔翁 淡粧濃抹烟波色 応映天辺明鏡中(使君隄作つて 南湖出で 共楽亭開いて 酔翁を圧す 淡粧濃抹 烟波の色 応(まさ)に天辺明鏡の中に 映ずべし)」と漢詩を寄せている。
*日本庭園翠楽苑:1995(平成7)年開園。南湖公園を築造した松平定信の庭園理念をもとに日本文化の伝承を体現する施設としてつくられた。池泉式回遊庭園となっており、約2.5万m2の敷地に59種約4,000本の草木が植栽され、四季折々に楽しむことができる。池を前にした松楽亭では抹茶を飲みながら庭園を眺めることができる(有料)。
*南湖神社:1922(大正11)年に渋沢栄一などの支援で創建。祭神は南湖公園を築造した松平定信。
*南湖森林公園:里山を利用した公園。面積は約20万m2。遊歩道、芝生広場、展望台などがある。

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