小峰城跡こみねじょうあと

JR東北本線白河駅の北側約500mに位置する。小峰ヶ岡と呼ばれる標高約370m、東西約450m、南北約80mの丘陵を利用した悌郭式平山城(ていかくしきひらやまじろ)である。丘陵の西端に本丸を設け、本丸の東側と南側に二之丸や三之丸などの曲輪を階段状に配置する。曲輪の周囲には石垣や堀が設けられ、全体としては五角形のような形状をした城郭である。
 史跡として指定されているのは本丸および二之丸などの一部約16万m2であるが、当時の城郭の範囲は約54万m2の規模と推定されている。
 小峰城は、南北朝期の興国・正平年間(1340~1369年)に結城親朝*が現在の丘陵に城を築いたのが始まりと伝えられ、その後、16世紀には搦目*にあった白川城から白河結城家の本城を移したと推定される。1590(天正18)年、豊臣秀吉の奥羽仕置で白河結城家は所領が没収され、その後、白河は蒲生家や上杉家が領主をつとめる会津領の一部となり、小峰城には城代が置かれた。
 1627(寛永4)年には、初代白河藩主となった丹羽長重が棚倉から入封し、小峰城の大改修や城下の町割を行い、1632(寛永9)年に現在も遺る石垣を多用した近世城郭を完成させた。丹羽家をはじめ、榊原*、本多、松平(奥平)、松平(結城)、松平(久松)*、阿部と7家21代にわたり白河藩主の居城となったが、1868(慶応4)年の戊辰戦争白河口の戦いで一部の建物が消失し、落城した。
 現在は、本丸周辺の石垣や堀の一部が残存し、また、1991(平成3)年に三重櫓、1994(平成6)年には前御門が江戸時代の絵図や発掘調査成果をもとに木造で復元され、江戸時代の小峰城の様子を感じることができる。
 2010(平成22)年8月には、奥州の玄関口という要衝に位置する城として重要な役割を担い、石垣を多用した江戸時代の城郭の姿を良好に残し、近世の政治・軍事を知るうえで重要なことから、国史跡に指定された。
*榊原の榊は木へんに神
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みどころ

城跡は現在公園となっており、駐車場から入ると、芝生の大きな広場越しに、がっちりと造られた石垣とその上に建つ黒の板張りと白い漆喰の三重櫓が見えてくる。どっしりしたと立ち姿が美しい。決して大きな櫓ではないが、存在感がある。近づけば石垣の緻密な造りにも驚かされる。
 公園内にある小峰城歴史館では小峰城について分かりやすく紹介している。展示室1では小峰城の歴史を解説したパネルや城郭、城下のジオラマ、VRシアターなどがあり、展示室2・3では、歴代城主の紹介と関連する古文書・美術工芸品が展示されている。
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補足情報

*結城親朝:生没年未詳。白河結城家の出自は下総結城家で、1189(文治5)年に源頼朝から奥州攻めの功により、結城朝光が白河領を賜ったのが白河との関係のはじまりと伝えられる。朝光の孫祐広は白河に領地を与えられて下向し、1253(建長元)年に白河の搦目に城を築き白河結城家を興したという。小峰城を築いた親朝は祐広の孫にあたり、父は南北朝時代に南朝方の有力武将として活躍した結城宗広である。
*搦目:白河駅から南東に約2kmの丘陵部に、現在も白川城跡として曲輪や空堀などの遺構が残されている。
*松平(久松)家: 同家は1741(寛保元)年 に越後高田藩から転封し、1823(文政6)年に伊勢桑名藩に転封するまで4代にわたり白河藩の治政にあたった。同家の白河藩主としては3代目にあたるのが、老中として寛政の改革を断行した松平定信(1758〈宝暦8〉~1829〈文政12〉年)である。号は(白河)楽翁。8代将軍徳川吉宗の子、宗武を初代とする田安徳川家から養子に入り、1783(天明3)年に白河藩主となる。1787(天明7)年に老中となり、1793(寛政5)年に老中を退き、その後は藩政に専念した。松平(久松)家の当主としては8代目。
関連リンク 白河市(WEBサイト)
関連図書 白河風土記
参考文献 白河市(WEBサイト)
国指定文化財等データベース(文化庁)(WEBサイト)
『西白河郡誌』福島県西白河郡 国立国会図書館デジタルコレクション
『ふくしまの城』鈴木啓 歴史春秋社

2023年09月現在

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