天童桜まつりてんどうさくらまつり

天童桜まつりは、毎年4月上旬から5月上旬にかけて開かれる祭りで、会期中は「人間将棋」「子ども将棋大会」「天童百面指し」「しだれ桜まつり」*「天童花駒踊りフェスティバル」などが市内各所で開催される。
 メインイベントは、1956(昭和31)年から催されている「人間将棋」(4月第3土、日曜日)だ。当初は「将棋野試合」と呼ばれ、天童将棋駒*の産地を盛り上げるため開かれるようになった。甲冑や着物姿に身を包んだ武者や腰元たちが、将棋の駒となり対局を行い、土曜日は女流のプロ棋士が、日曜日は男性のプロ棋士が対戦する。
 舞台となるのはJR山形新幹線天童駅から南西約1kmにある天童公園(舞鶴山)*で、この時期には例年、約2,000本の満開のサクラのもとでの対戦となることも多い。天候不順の場合は天童市民会館での開催となる。
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みどころ

満開のサクラのもとでの「人間将棋」はプロの熱戦を楽しめることはもちろん、天童の春を十二分に堪能できる。また、将棋に関するイベントも数多くあり、将棋ファンにとっては、堪えられない祭りだ。
 しだれ桜並木はライトアップもされ、夕刻から河畔の散策では幻想的な雰囲気を楽しめる。
 天童公園(舞鶴山)の北、天童駅の東側にある天童温泉は1911(明治44)年に田んぼの中から高温の源泉を掘り当てたもの。現在では、11軒ほどの温泉旅館が建ち並び、3か所に足湯もある。将棋観戦やサクラ見物のあと、疲れをいやすのには格好。(志賀 典人)
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補足情報

*しだれ桜まつり:天童市役所の南側を流れる倉津川の両岸約1.4kmにしだれ桜が咲き誇り約720mにわたってライトアップされる。
*天童将棋駒:天童市では全国で使用される将棋駒の大半を生産している。1767(明和4)年に上野国小幡(群馬県甘楽町小幡)から出羽国高畠(山形県高畠町)に移封された織田氏は、所領の中心であった天童へ1831(天保2)年に本拠地を移し、天童藩と呼ばれるようになった。しかし、藩の財政は厳しく、下級藩士は生活に困り、内職によって家計を補う必要があったことから、藩の用人職であった吉田大八が、 藩士に将棋駒の製作を奨励した。その製法は、将棋駒の一大産地だった大阪から駒師を招聘して習得していた米沢藩から天童藩に伝えられたという。明治以降、問屋の整備などにより流通路も確保され、また、大阪、東京の高級駒に対し、大衆駒を中心に生産したことにより、急激に天童将棋駒は全国に広まったという。他の生産地が衰えていくなか、現在では大衆駒から高級駒まで全国で使われている将棋駒の大半を製作する大産地となった。
*天童公園(舞鶴山):公園の中心にある舞鶴山は戦国時代の山城。最上、置賜地方で最大規模を誇っていた。山全体に曲輪や切岸などの名残りが見られる。城主であった天童氏は、当時、この地方の盟主最上氏の有力家臣団であったが、最上氏を凌がんばかりの力があったといわれている。その後、伊達氏との領国争いのなかで伊達氏側に組することになり、ついには最上義光の攻撃に遭い激戦のうえ、1584(天正12)年に落城し廃城となった。幕末には天童藩織田氏の陣屋が置かれた。