本間家旧本邸ほんまけきゅうほんてい

JR羽越本線酒田駅の西南約1km、山居倉庫から北東に500mほどのところにある。酒田の豪商、本間家*3代光丘が1768(明和5)年に幕府の巡見使一行の宿として建築し、庄内藩主酒井家に献上した武家屋敷。その後、本間家が拝領し、代々、本邸として使用した。一つ屋根の下に武家屋敷と商家造り*が一体となった全国的にも珍しい建物である。
 敷地1,322m2、母屋は桁行(南北)33.6m、梁間16.5m(東西)の平屋建。12.5畳の上座敷、本朱塗りの仏間、40畳の台所など23の部屋がある。屋敷の周囲は、北側に土蔵4棟、土塀や植栽を巡らせ、防火にも備えている。南側に賓客用の長屋門が、東側に通用門の薬医門が現存している。旧本邸は、1982(昭和57)年から一般公開しており、本間家に伝わる史料等を展示するほか、お雛様・端午の節句等、四季折々の展示を行っている。
 別館「お店」は、本間家初代原光が「新潟屋」を開業して以来、代々、商いを営んだ場所であり、現在は、実際に使用された帳場や度量衡、行灯等の照明具、台所用品、そして商いに使用された看板などが展示されている。
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みどころ

武田泰淳は1952(昭和27)年に「酒田の本間家」というエッセーの中で、農地解放後の本間家旧本邸を訪れた時の印象を記している。当時は、旧本邸は酒田市公民館として提供されていたが、「質素な、飾り気のない構え」で、広間については、「頑丈な柱と板戸に武家生活が偲ばれる以外、何の奇もないうす暗い場所である」とも描写している。この質実剛健さは、「勤倹の二字は先祖由来の厳訓たり」という本間家の家訓に基づくものといえよう。しかし一方では、例えば、釘隠しや欄間の装飾など造作の細かいところまで気配りがされており、建築当時の豊かさも垣間見え、興味が尽きない。
 四季折々の企画展、特別展でも、江戸時代を中心に酒田の町や本間家が最も栄えた時期の様子を窺い知ることもできる。
 庄内地方は、江戸時代には、コメ、ベニバナ、ニシンなどの特産品の集散地として栄えたため、本間家のように豪邸を構えた商人も多かった。このため、現在でも、酒田では旧鐙屋(国指定史跡)、鶴岡には旧風間邸(国指定重要文化財)、遊佐町には青山本邸(国指定重要文化財)などの貴重な建造物が残っており、この本間家旧邸をはじめとして、豪邸巡りも庄内地方のみどころのひとつだ。(志賀 典人)
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補足情報

*本間家:本間家の祖先は永録年間(1558~70)に越後から移住したとされ、1689(元禄2)年に分家した原光が新潟屋を開業し、現在も続く本間家の初代となったといわれている。酒田は16世紀末には最上川流域の米の集散地として米倉が建つようになっていたといわれ、さらに1672(寛文12)年には、江戸の飢饉に際し、幕府は豪商河村瑞賢に命じ、酒田港から御用米を江戸へ回漕させたことから西回りの「回米航路」が開け、コメ、ベニバナなど庄内、奥羽の特産品の積み出し港として栄えた。その中でも本間家は、「本間様には及びもせぬが、せめてなりたや殿様に」と俗謡に謡われるほどの豪商となった。本間家3代光丘のときに五百石の知行帯刀を許された。明治・大正・昭和期は大地主として知られ、社会事業にも力を入れた。
*武家屋敷と商家造り:それぞれの部分の造作には木材の材質や壁の仕上げ、欄間や梁の彫りや塗りなどに明確な違いがある。また、武家屋敷の縁側の板は滑らないよう横張りだが、商家造りは掃除をしやすくするため縦張りにされている。
関連リンク 本間家旧本邸(WEBサイト)
関連図書 武田泰淳著『武田泰淳全集第12巻(酒田の本間家)』筑摩書房、1972年
参考文献 本間家旧本邸(WEBサイト)
酒田市文化財施設「旧本間本邸」
山形県(WEBサイト)

2020年12月現在

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