秋田県立美術館あきたけんりつびじゅつかん

JR秋田新幹線・奥羽本線秋田駅から西へ約800m、千秋公園の南側、お堀の前のエリア内に建つ。同館は千秋公園*1内に1967(昭和42)年に開館されたが、2013(平成25)年に現在地に移転した。現在の建物は、建築家安藤忠雄の設計によるもので、コンクリート打ち放しの壁面やスリット窓などで構成されたシンプルな建築物*2となっている。2階のミュージアムラウンジ前には水庭が配されている。
 同館の運営の基本方針は、平野政吉*3コレクションの藤田嗣治*4作品を展示するとともに、「身近に芸術を楽しむ文化を育み、秋田の街、人、文化の創造と共生を目指し」ている。このため、収蔵品は1930年代の藤田嗣治の作品をはじめとして、中国の花鳥画、秋田蘭画*5などの日本の洋風画家の作品などを収集している平野政吉コレクションが中心となっている。2階の大壁画ギャラリーには藤田嗣治が1937(昭和12)年に制作した大壁画「秋田の行事」(縦3.65m、横20.50m)が展示されている。
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みどころ

この美術館の最大のみどころは、2階の大壁画ギャラリーにある藤田嗣治の大壁画「秋田の行事」だ。藤田嗣治が1937(昭和12)年当時の「竿燈」など秋田の祝祭・行事や日常生活を自ら取材し、大壁画に極めて丹念に描いている。製作日数が15日だったとされているので驚嘆に値する。躍動的な動きのある絵であり、色彩も豊か。また、藤田の特徴である女性の乳白色の肌が美しい作品「眠れる女」や1936(昭和11)年制作の「自画像」なども見逃せない。
 美術館は、水庭越しに千秋公園の四季を借景にしたラウンジ空間や美術館と街とをつなぐ大きな三角形吹抜けのエントランスホールなど、秋田の中心街でありながら千秋公園を望む立地を活かした工夫が施されており、建造物としても興味が尽きない。
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補足情報

*1 千秋公園:1602(慶長7)年から、1869(明治2)年まで12代267年間続いた佐竹氏の秋田藩20万石の居城、久保田城跡を都市公園として整備したもの。園内には表門や御隅櫓が復元されている。
*2 シンプルな建築物:地下1階・地上3階建て。1階はエントランスホール・県民ギャラリー・レクチャールーム、2階は大壁画ギャラリー・ミュージアムラウンジ、3階はギャラリー1・2から構成されている。
*3 平野政吉:1895(明治28)~1989(平成元)年。秋田市で米穀商を営み、資産家でもあった平野家の三代目。青年期より美術品のコレクションを行っていたが、藤田嗣治と出会った平野は、1936(昭和11)年、藤田の妻・マドレーヌの急逝にともない、その鎮魂のために美術館の建設を構想。藤田の大作を多数購入し、藤田の壁画制作も進めたものの、戦時だったため美術館の建設はやむなく中止された。1967(昭和42)年に至り、収集した平野のコレクションは秋田県立美術館で展示されることになった。
*4 藤田嗣治:1886(明治19)~1968(昭和43)年。東京都牛込区(現在の新宿区)生まれ。東京美術学校西洋画科を卒業後、1913(大正2)年、渡仏。パリでは、滑らかな乳白色の肌を描く技法を確立し、パリの画壇でも高い評価を得た。1931(昭和6)年には中南米を歴訪し、豊かな色彩表現の画風が主流となっていく。1933(昭和8)年には日本に帰国。しかし、戦時下の戦争画を制作したことが敗戦後に非難を受け、1949(昭和24)年に日本を離れた。その後フランス国籍を取得した。
*5 秋田蘭画:秋田の阿蘭陀風絵画で、江戸時代18世紀後半に秋田藩の武士たちが、日本画材など伝統的な材料を使用しつつ、遠近法と影の表現など西洋画の技法を取り込み、写実的な風景画、花鳥画などを描いたもの。平賀源内が西洋技法を指導したとされ、「解体新書」の挿絵を担当した秋田藩士小田野直武などが知られている。当美術館にもその作品が収蔵展示されている。
関連リンク 秋田県立美術館(WEBサイト)
参考文献 秋田県立美術館(WEBサイト)
公益財団法人平野政吉美術財団(WEBサイト)

2023年07月現在

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