旧料亭金勇きゅうりょうていかねゆう

JR五能線能代駅から西へ900mのところにある。1937(昭和12)年に秋田スギなどの良材をふんだんに使って施工された大規模和風建築物。1階には庇、2階のガラス窓に手摺りがつけられ、正面及び側面の両端は入母屋造の屋根となっている。室内は、110畳ほどの2階大広間をはじめとして各部屋とも手が込んだ造作がなされており、秋田スギほか、マツ・エゾマツ・アカマツ・ベイマツ・ヒバ・ケヤキ・カエデ・サクラ・キハダなどの銘木を効果的に使っている。
 料亭金勇は、初代金谷勇助により1890(明治23)年、柳町に貸座敷の開運楼として創業された。1893(明治26)年、現在地に政談演説の場として山本倶楽部を建築したが火災などに遭い、現在の建物は2代目金谷勇助によって1937(昭和12)年に金勇倶楽部として再建された。木都能代*1を代表する料亭として各種宴会や接待、婚礼などに広く使われていた。2008(平成20)年に閉店し、2013(平成25)年から観光交流施設「能代市旧料亭金勇」として開館し、現在に至っており、地元の各種行事、イベントにも利用されている。各種会合の利用も可能で料理の取り寄せの手配もできる。見学は無料。
#

みどころ

「木都能代」の華やかなりし頃を代表する和風大規模建築物。外観も両端の入母屋の屋根と2階のガラス窓と手摺りがどっしりした構えを見せる。内部も十分に選木された良材を工夫を凝らして、巧みに使用しており、「木都」らしい木材へのリスペクトが感じられる。
 もちろん、秋田スギがふんだんに使われており、1階「満月の間」の天井に張られた長さ5間(約9m)の一枚板や、2階の大広間の格天井などは必見。各部屋の床の間、床柱、硝子戸、建具もいろいろな種類の銘木が使用され、職人の腕が光っている。
 なお、現在は、能代の名店の和食料理を取り寄せることができ、素晴らしい造りの木造建築のなかで会食できるのも嬉しい(要予約)。
#

補足情報

*1 木都能代:能代は米代川の河口に舟運の集散地として発達した街。能代は古代から「渟代(ぬしろ)」「野代」と呼ばれ出羽地方の重要な港で、中近世では米代川上流で産出する金銀銅や木材、米などの物流の要となった。そのなかでも「秋田スギ」は古くから建築材として有用とされ、文禄から慶長年間初め(1592~1600)頃にかけて、豊臣秀吉の命で軍用船の大安宅船(おおあたけぶね)や伏見城造営のためにこの地から搬出されたことでも知られる。1694(元禄7)年、1704(宝永元)年の大地震で壊滅的な被害を被ったため、再建にあたって町の名を「野」ではなく「能」に改めたという。能代が「木都」として大きく発展したのは、秋田藩が藩有林管理のために「能代木山方」を設置したことによるとされ、「其の創始慶長年中既に野代材木受拂の目録あるに依りて、由来するところ」で米代川流域内の左右の山、沢からの「其造材は、盡く此の河水を利用し流出して、各地各般の需用に供給せり。故に地勢上、自然に一大區域を限り、其造材は能代港に輻輳するを以て、能代川上木山の稱号にありて、秋田藩に於ける財源の一寳庫」(秋田県史・1917(大正6)年)であるとされた。明治には木材の「港灣輸出の第一は能代港にして米代川流域國有民有森林の斫(しゃく・斧で切る)伐額の大半を輸出す…中略…奥羽線開通後木材の陸路輸出の途開けたる結果は港灣輸出を減退せしむることなく、製材業の勃興となりて敏活に需用地に供給」(秋田県案内記)しているおり、能代の繁栄が続いていることが分る。こうした社会経済背景のなかで「料亭金勇」の前身が創業した。