土崎港曳山まつりつちざきみなとひきやままつり

JR男鹿駅から西へ200mほどのところにある土崎神明社*1の祭礼で、神輿の渡御に合わせて、町内を曳山が巡行する。例年7月20日、21日の両日に行われる。祭礼は町を挙げて行われ、旧47町内が9つの組に分かれて当番を務め、祭礼の3か月ほど前から様々な神事や曳山の蔵出し、製作、飾り付けなどの準備が進められる。曳山*2の台数は年により異なるが、20数台が奉納、曳き廻される。境内などに置山も作られることもある。
 7月20日の宵宮では、町内を中心に「港ばやし」*3の笛や太鼓、鉦に乗って曳山が曳き回され、神明社に順次、参拝してお祓いを受ける。21日の本祭では、神輿が町内を巡行し町の南にある旧穀保町(土崎港南一丁目)の御旅所に向かう。昼前には各町内の曳山が御旅所前で神輿を迎える。その後、曳山は本町通りを北に向かい、旧相染町(土崎港北一丁目)までの「御幸曳山」が行われる。夕方、旧相染町から、各町内に向け「戻り曳山」が夜遅くまで行われる。巡行中には手踊りも氏子たちによって披露される。翌22日には曳山は解体され、大会所では「昇神祭」が行われ、主な神事は終わりを告げる。
 曳山行事の起源の詳しいことは不明であるが、18世紀初めには神明社の神輿渡御を土崎の町民が寺社奉行に願い出たという記録があり、18世紀後半から19世紀に入ると、現在の曳山に通じる行事が行われたことを記した地誌、紀行文・案内記*4が多数遺されている。
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みどころ

「秋田綺麗」の6月20日の項では「燈籠の光天を焦す、數里の外より遥望しても湊の方晝(昼)のことし。翌二十一日祭行、山棚、屋臺(台)、出し(山車)、邌物(練り歩く行列)藩中の壮觀を駭(驚)す」と描写しており、江戸時代末期には、この祭礼が極めて盛んであったことがわかる。この行事には、災いをもたらす怨霊や悪霊を曳山に誘い込んで封じ込め、まつりが終了すると曳山を解体して怨霊や悪霊を町から追い払う意味があるとされるとともに、祭りの華やかさは、京都の祇園の山鉾など飾り立てた「風流」の影響があるともされ、地域の多様な行事、祭礼が融合して長い歴史のなかで形作られてきた行事だといえよう。それだけに曳山は、美しく華やかに飾りつけられ、見物客を楽しませる工夫が凝らされている。
 また、この曳山の特徴として、輪っぱと呼ばれる木製の車輪と木造の台車が擦れ合って、「ギイーギイー」と木が軋む音を立てながら進む。その音が迫力と面白味を生む。
 みどころは、まず、宵宮での曳山の神明社への勇壮な奉納、さらに本祭での曳山が豪快な「湊ばやし」とともに本町通りに連なる「御幸曳山」と夕刻からの「戻り曳山」が華やかで、氏子、踊り手たちも盛り上がり、見応えがある。町内に戻っていく「戻り曳山」では祭りの終わりを告げる、哀調を帯びた「あいや節」が奏されるなか、祭りのクライマックスを迎える。
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補足情報

*1 土崎明神社:常陸国から佐竹家が1602(慶長7)年に転封したことに伴い、旧臣であった川口惣治(次)郎が土崎に移り住み同地の肝煎となった。その際、常陸国より、同家の氏神である神明宮を勧請したという。土崎の港町としての整備が進むと、1620(元和6)年に神明宮を湊城の跡地(現在地)に遷座し、藩主佐竹義宣の許可を得て土崎港の町の総鎮守としたことがはじまりとされる。
*2 曳山:「曳山」の作りとしては剛(正面)と柔(裏面)からなる。剛(正面)の台上には男岩、女岩の夫婦岩が作られ、その前に伝説上あるいは歴史上の武人、偉人の人形が飾り付けられる。柔(裏面)には、櫓を設けられ、囃子方が乗る。その上部には時代を風刺した「見返し」札が掲げられ、それに合わせたコミカルな表情をした「見返し」人形が置かれる。現在、人形の制作は創業140年の越前谷人形店が行っている。また、曳山の囃子櫓を囲むように赤を基調とした角灯籠や角花が飾られる。曳山のサイズは町内によって様々である。もっとも大きいものは高さ11.5mにも及び、国道7号線バイパス沿いにある土崎みなと歴史伝承館に展示されている。
*3 港ばやし:曳山の囃子は、「港ばやし」と呼ばれ、7月20日の宵宮、21日の穀保町御旅所で神輿を迎える際、華やかに威勢のよい「寄せ太鼓」、「御幸曳山」の際に奏される勇壮豪快な「湊ばやし」、リズミカルでテンポのよい「湊剣ばやし」や「加相ばやし」、それに「戻り曳山」の際に演奏され、祭りのフィナーレを飾るのに相応しい哀調を帯びた「あいや節」の5曲である。
*4 地誌、紀行文・案内記:1804(文化元)年の人見藤寧「秋田綺麗」、1815(文化12)年の淀川盛品「秋田風土記」、1814(文化11)年頃の「奥州秋田風俗問状答 秋田六郡神佛之部」、1878(明治11)年のイザベラ・バード「日本奥地紀行」などに記載がみられる。例えば、「奥州秋田風俗問状答」では6月21日の項に「宵祭の燈火もとも盛んなり。此日神輿穀保町御旅所へ神幸、供奉の練り物山鉾等町々より數を盡して出る」と記している。また、英国人女性冒険家イザベラ・バード「日本奥地紀行」では曳山について「30フィート(9m)もの長さのある太い梁材を組み立てたもので、八つの巨大な車輪がついていた。中まで詰まった車輪だった。その車輪の上には先が平らになった杉の枝のようなものがいくつも突出した櫓が組まれ、峰のようなその先端は二つに分かれて高さが不揃いになっていた(夫婦岩)。・・・中略・・・どの突起物も黒い木綿の布で覆われ、そこからいくつもの松の枝が突き出していた。(夫婦岩の)真ん中には、細く裂いた白い綿布が絶え間なくうねり、滝を表現していた」と詳しく祭りの様子と曳山の構造を記録している。ただ、曳山の出来具合については、かなり辛口の評価を下している。