能代ねぶながし(能代役七夕)のしろねぶながし(のしろやくたなばた)

例年8月上旬に行われる能代市の夏まつりで別名「役七夕(やくたなばた)」と言われ、市街地と米代川河畔で行われる。
祭り当日は、シャチを載せた城郭型の灯籠(山車)複数基がそれぞれ担当する各町内を80人ほどの若者たちによって曳き回される(自丁廻丁)。そのあと、子供たちが持った田楽灯籠を先頭に、笛と太鼓に続き、灯籠(山車)がそろって、市街地を曳き回されねり歩く(全廻丁)。能代駅前に灯籠がそろうと、音頭上げに続き七夕囃子が奏され、太鼓が響き渡る(そろい打ち)。再度廻丁が行われ、初日が締めくくられる。
 翌日は灯籠(山車)から城郭の灯籠が外され、シャチのみが載せられる。自丁廻丁を行ったあと、米代川に向かい、シャチの灯籠は川に浮かべられ、焼き流して祭りが終わる。このため「ねぶながし」は能代では「しゃちながし」ともいわれる。
 「ねぶながし」の起源*1については、坂上田村麻呂が蝦夷との戦いに用いた灯籠説や、豊作祈願・疫病払いとして灯籠を焼き流したという説など諸説あるが、記録として遺されているものとしては、1741(寛保元)年に記された「代邑聞見録」に「童共五人十人組合燈籠を付、『ねふねふ流れ、豆の葉にとまれとまれ』*2と太鼓鉦笛にて囃子町中を廻る」としており、山車・屋台形式の灯籠はまだ見られないと思われるが、この時期以前には、この行事が成立していたのは確実だとされている。さらに1815(文化12)年頃の「秋田風俗問状答」では「この眠流してふこと、城北の能代の港にはことにはなやかに候。わたりは二丈(約6m)ばかり、高は三丈(9m)にも四丈(12m)にもする屋臺人形さまざまの工を盡し、皆蝋引たる紙にして五彩をいろどり、瑠璃燈似たり」としているので、江戸末期には現在の灯籠(山車)の形式*3が整えられたとみられている。
 この祭りは、江戸時代から現在まで大町組・上町組・萬町組・清助町組・柳若組(江戸期は後若組)組により構成される五町組と呼ばれる町人組織の年番制によって運営されてきた。「役七夕」と呼ばれるのはこれが由来とされる。
 なお、海岸沿いにある能登エナジアムパークの「能代ねぶながし館」では2基の灯籠(山車)が常設展示されている(入場無料)。
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みどころ

まず、1日目のみどころは、全丁廻しの際、柳町商店街の坂に差しかかり一気に駆け上る灯籠の勇壮な姿や能代駅前で複数基の灯籠(山車)が集まり、城郭型の灯籠が夜空に明々と浮かび上がる威容。テンポ良い囃子や太皷が祭り気分を盛り上げてくれる。 俳人河東碧梧桐は1906(明治39)年に当地を訪れ「柳町のであるといふ四丈何尺の燈籠の灯をともし始めた。胴中は馬鹿に膨れてをるけれども、上に鯱鉾を頂いた四角な形は、總て天守閣の作りで、巍々として家居の上に聳えてをる。鯱鉾の尾の先きから、天守閣の臺石の邊まで灯がともる。様々な模様を紅で染めたのが、灯に眞赤に燃えるやうである」と記しているが、今、まさにこれが再現されている。
 しかし、なんといっても祭りのクライマックスは、2日目の夕刻、米代川で「いかだ」にシャチの大きな灯籠を載せて流し、燃やすところだ。暗闇の川面に輝くシャチが燃え上がり、それと同時燃え尽きるのを惜しむように掛け声とともに哀調を帯びたお囃子と太鼓が奏でられる。そして、再び、暗闇が訪れる様は、心打つものがある。
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補足情報

*1 起源:柳田国男によると、能代と「 同時代に行われていた村々の眠流しの方は、ただ単に麻稈(おがら)をめいめいの齢の数だけ折って、草のかずらでからげ、それを枕の下に 敷いて寝 て、七日の朝早く川へ流すだけの行事をそう呼んでいた」などのことから「眠流し最初の趣意が、魂送りや聖霊舟のそれと、本来同じであった」と推論しており、古くからある盆送りと七夕の行事が習合していったと考えられる。このため、かつては旧暦の7月6日、7日に行われていた。
*2 『ねふねふ流れ、豆の葉にとまれとまれ』:柳田国男はこの掛け声については「ネブタは合歓木と睡魔とを意味し、マメはまた豆と壮健とを意味していた。その一方を憎んで海川に流さんとし、他の一方の止まって土地にあることを、念じ願った心持はよくわかっている」と解釈している。
*3 灯籠(山車)の形式:山車・屋台形式の灯籠が誕生したのは、京都の祇園の山鉾など飾り立てた「風流」の影響があったと推測されている。灯籠の形式は当初は人形屋台も含め、さまざまだったとみられるが、1830(天保元)年頃、能代の大工宮越嘉六が尾張へ出稼ぎに行った際、着想を得て尾張の城を模した城郭型灯籠を制作したとされ、現在の形式が誕生したとみられる。明治期には高さ3丈(9m)から6丈(18m)あったという記録が遺るが、その後、道路や電線の整備に伴い大きさが制限されるようになった。2013(平成25)年からは、市街地の電線の地中化に伴い往時の大型の城郭型灯籠が再現され曳き回すことができるようになった。現在、大きいものは高さ17.6mの嘉六と同じく24.1mの愛季(ちかすえ)である。