稲庭うどんいなにわうどん

稲庭うどんは奥羽本線湯沢駅から南東へ約15kmの皆瀬川沿いの稲庭町(湯沢市)で生まれた手延べの平たい乾麺である。なめらかな舌ざわりと、つるつるとしたのどごしが特徴の麺。
 稲庭うどんの始まりについては諸説あるが、1814(文化11)年にこの地を訪れた紀行家菅江真澄の「雪の出羽路」では「稲庭郷中町驛」の項で「名産御用乾饂飩としるしたる屋戸あり、御主を佐藤吉左衛門といふ。此家にてこの干饂飩索制(ないそめ)始しは元文(1736~1741)のはじめ、佐藤氏五代目の吉左衛門が由理ノ郡本庄に至りこれを糾(なら)ひ治て稲庭に帰り、とし月を経るまま心に切(まかせ)て索(綯:な)けるほどに、今はたぐふかたなう其名聞えたり。」(名産・御用乾しうどんと看板を掲げた家があり、主人を佐藤吉左衛門という。この家で乾しうどんを製造し始めたのは元文のはじめで、佐藤氏5代目の吉左衛門が由利本庄(山形県)で習得したうえで稲庭に帰り、長い年月をかけ心を込めて作り続けた結果、今では他に類い無いものとその名が知れ渡っている)としている。一方、1904(明治37)年に書かれた「稲庭古今事蹟誌」では稲庭での干温飩の製造は、小沢(こざわ)*1の佐藤市兵衛家に始まり、「元禄三庚午(1690)年藩主ノ御用ヲ蒙リタリ子孫長治右衛門長太郎其業ヲ継キシカ其後廃業セリ此頃ヨリ佐藤吉左衛門干饂飩製造業ヲ興シ」(元禄3年、藩主御用を賜った。その子孫長治右衛門(ちょうじえもん)、長太郎が跡を継いだものの、その後廃業した。この頃から佐藤吉左衛門が干温飩製造業を興した)として、始まりの経緯については若干異なる。その後、製造技法は一子相伝であったが、1860(万延元)年に2代目佐藤養助にも特別に伝授され、2者による製造となった。
その製造技法は、小麦粉、食塩、打ち粉で捏ねた生地を作り、一晩熟成する。その小巻した生地を二本のかけ棒に縄を綯(な)うように撚りを入れ、綾がけして細くしていく「手綯(てない)」作業を行う。さらに寝かした後平押しし、熟成させたうえで、手作業による延ばしを行い乾燥させるという、手間をかけたものである。
この伝承された技法を1972(昭和47)年には広く公開し生産の近代化を進め、全国への普及に努めてきた結果、現在では、秋田県内はもとより、全国にその名は知られるようになった。
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みどころ

この地で「稲庭うどん」が名産となった背景は、菅江真澄の「雪の出羽路」によると「もともと小麥は三梨村(稲庭町の北)の土毛(地産)にて、此小麥もまた世にまれなる麥といへり、さりければ麥により水により家によりて名品とはなりぬ」として、原料の小麦、製造に使う水、それに伝来の技法が名品を生んだとしている。現在の三梨村では小麦は生産していない。
「稲庭うどん」の最大の特徴は、職人技と手間をかけた手作りのうどんであり、つるつるとしたなめらかな食感で、しっかりしたコシの平麺は喉ごしの良さに優れ、温かくしても冷やしても、美味しく食べることができる。
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補足情報

*1 小沢(こざわ):「小沢」は「中町驛」から南へ約3km。菅江真澄の「雪の出羽路」の小沢村の項に「○御用 粟索麺、又小豆索麺、百合麺、かたくりをもても索麺を索(綯:な)うやどあり、佐藤長太郎といふ」とある。