大日堂舞楽だいにちどうぶがく

例年1月2日にJR花輪線八幡平駅近くの鹿角市八幡平の小豆沢地区にある大日霊貴神社(おおひるめむちじんじゃ:通称大日堂)1*の拝殿中央に設けられた10尺(約3m)四方の特設舞台で、古くからこの地方に伝承される舞楽が、鹿角市八幡平の大里、谷内、小豆沢、長嶺4つの集落の能衆と呼ばれる氏子によって交替で多彩な舞楽を奉納する。
 舞楽奉納*2は、まず当日早朝に能衆が、集落ごとに決められた場所に集まり身を清め、集落の神社などで舞楽を舞ったあと行列を組んで大日霊貴神社に向かう。境内に参集した能衆は、御神木前でお祓いを受け、地蔵舞を行い、境内を3周する「幡綜(はたへい)」を行い、次いで拝殿前正面の階下で「花舞(神子舞、神名手舞、権現舞)」が舞われる。花舞の最中、拝殿内では脱穀の様子を表す「籾押し」が小豆沢の若者たちによって奉納される。花舞を終えた能衆は拝殿の外廊を3周し、集落の「龍神旗」を拝殿の2階に投げ渡し(「幡揚げ」)欄干から下げる。このあと、拝殿内で、能衆全員が神子舞、神名手舞を舞い、銭と米をまき、舞台を浄める(「大小行事」)とともに豊作祈願の祝詞を奏上して、本舞となる。舞の内容は大日霊貴神社の創建にまつわる「だんぶり長者」伝説*3がもとになっている。
 本舞は7つの舞で構成され、集落ごとに分担される。舞の順番は時代によって変遷があったとされるが、現在では権現舞*4、駒舞*5、烏遍舞*6、鳥舞*7、五大尊舞*8、工匠舞*9、田楽舞*10の順で2時間ほどかけて奉納される。
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みどころ

寒い中、高拍子の太鼓と笛の音が境内に広がる。本舞に向けた神事や行事が行われるが、拝殿内では威勢の良い「ヨンヤラヤーエ」の掛け声と「ソリャーンサーエ」の受け声の「籾押し」が小豆沢の若者たちによって奉納され、その後、太鼓の調子が早くなると集落の幡を持った幡持ちが拝殿内に走りこみ、掛け声ともに2階に投げ上げられ、小豆沢の若者たちが受け取り、欄干に吊るす、最初のクライマックスである「幡揚げ」の儀式が行われる。見物客からも喚声と大きな拍手が起こる。
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補足情報

*1 大日霊貴神社:創建については定かではないが、社伝によれば、継体天皇の代に高徳により醴泉を授かった長者の善行を伝えようと善紀2年に勅願により大日示現社が創建された。718(養老2)年元正天皇の命により、行基が下向し再建させ、この時行基に随行した楽人が里人に舞楽を伝授したのが現在の大日堂舞楽であるという。以降は両部神道の堂社として崇められ、平安末期には藤原秀衡により大修理が加えられ、その後も火災による焼失があったものの南部家による庇護のもと、堂宇、寺領が維持された。明治に入り、神仏分離令により大日霊貴神社となり、1949(昭和24)年の火災で社殿は焼失したが、1951年(昭和26)年に拝殿を建立し、幣殿本殿を増築して1956(昭和31)年に竣工した。周辺には吉祥姫や吉祥姫が生んだ皇子に関する史跡や伝承が遺る。
*2 舞楽奉納:民俗芸能研究者中村茂子によれば「また現在の大日霊貴神社は、明治の神仏分離以前まで養老山喜徳寺と称し、妻帯世襲の別当と社人が祭祀、祈祷、維持管理などを行っていた…中略…これらの舞は、喜徳寺修正会の延年であり猿楽流行以前の古い時代に中央大寺の延年が伝播し、在家の人々によって土地独特の芸能に遍かさせつつ、伝承してきたもの」だと推論している。
*3 「だんぶり長者」伝説:「だんびる長者」ともいい、だんぶり、だんびるは、この地方の方言で「とんぼ」のことをいう。寛文年間(1661~1673年)以降に成立したという江戸中期の「鹿角由来」では、大日堂から米代川の上流に住んでいた「左衛門太郎とて土民有、夫婦つれにて畠蒔に出畫(昼)飯を喰晝休み、男しばらく寝入居候があけぢ(赤津:とんぼ)のよふなるもの飛びきたり彼男の口へ尾を付け、向ふの岩へ飛行又來て右の通二三四度四五度致候を女見てふしぎに存居候が、男目をさまし申候は只今ふしぎなる夢を見候、何方ともなく行しが岩の下に名酒有だいぶん呑とかたる、女房横手を打て扨々目出度事も候、名酒ある所を能知りしとかたる」とし、その岩の近くに家を建て、名酒を売ったところ長者になったという。この夫婦に娘ができ、都見物にいったところ、継体天皇に見染められ、后(吉祥姫)になったという。長者の死後、継体天皇の勅願で大日堂(養老山喜徳寺)が創建されたという。江戸末期の紀行家菅江真澄も天明5年(1785)の遊覧記「けふのせはのの」に同様の伝承を採録している。
*4 権現舞: 五ノ宮大権現の舞といわれ、獅子頭は権現様と呼ばれる。継体天皇の第5皇子である五ノ宮皇子が五ノ宮嶽に入山し姿を消しその隣の森に龍が現れ村人を恐れさせたので、皇子の御霊を慰めるために獅子頭を奉納して舞われるようになったといわれる。小豆沢の能衆8人よって奉納され、1人が獅子頭をかぶり、子どもが獅子の尾を振り、笛太鼓に合わせて舞う。
*5 駒舞:吉祥姫と五ノ宮皇子の御馬の舞といわれるが、五ノ宮皇子が都を出る際に安閑天皇より賜った月毛の駿馬2頭の舞という説もある。大里の能衆2人が紙垂笠(しでがさ)をかぶり、胸に木製の駒頭をつけ、笛太鼓の囃子で舞う。この駒頭はご神体とされ、身に着けると温和な人でも荒駒の如く勇ましくなるといわれる。
*6 継体天皇の御后であった吉祥姫の遺体を葬る様を振り付けたものともいわれる。長嶺の能衆6人が博士と呼ばれ、折烏帽子をかぶり、頬面と呼ばれる面をつけ、右手に太刀を持ち、太鼓の囃子で舞う。
*7 鳥舞:「だんぶり長者」夫妻が飼育していた鶏の遊ぶ様を舞にしたとものと伝えられる。大里の子ども3人がそれぞれ雄、雌、雛の鳥甲をかぶり、日の丸鮮宇を持ち、雄は左手に鈴を持ち舞う。
*8 五大尊舞:「だんぶり長者」夫婦と4人の家臣の舞とされ、金剛界大日如来、胎蔵界大日如来がだんぶり長者に化身し、それに普賢、八幡、文殊、不動の四大明王が仕えた様を表しているといわれる。谷内の能衆6人が頭に梵天冠(ぼんてんかぶり)と面をつけ、肩に打越を着て、右手に太刀を持ち、太鼓と板子の囃子に合わせて舞う。
*9 ばち舞、土師党舞、番匠舞とも称され、大日神の御身体を刻む様を舞にしたといわれる。大里の能衆4人が横一列になり場所を移動しながら入れ替わり最後に元の位置に戻るまでゆっくりとし
た動作で舞われる。
*10 田楽舞:「だんぶり長者」夫婦が農民の労を慰めるために舞わせたものといわれる。小豆沢の能衆6人が頭に綾笠をかぶり、1人が小鼓、1人が太鼓、ほか4人がささらを持ち、笛太鼓の囃子に合わせて舞う。小鼓は天狗から授かったことに由来し天狗鼓という。