横手のかまくらよこてのかまくら

ドイツの建築家ブルーノ・タウト*1が「雪中の静かな祝祭」*2と称した、横手の「かまくら」は毎年2月15日、16日に催され、16日、17日の「梵天(ぼんでん)」*3や市内各所に雪像が展示される「雪の芸術」と合わせ、「横手の雪まつり」として開催される。
 かまくらは、高さ3mあまりの雪室で、内部正面に祭壇を穿ち、御幣をたてて水神様を祭っている。子ども達は火鉢を囲んで甘酒を温めたり、お餅を焼いたりしながら、前を通る人たちに「はいってたんせ(かまくらに入ってください)」「おがんでたんせ(水神様をおがんでください)」と呼びかける。招じられた客は水神様にお賽銭や供物をあげて、甘酒をご馳走になる。夜になると灯明の灯火が雪に映えて、童話のような世界が展開する。昭和40年代(1965~1975年)までは、道端や家々の門口に作られたが、現在は横手市役所本庁舎前・横手公園・二葉町通りなどに、60基ほどが観光用として作られているほか、市内にミニかまくらが作られ、ローソクの灯がともされる。
 「かまくら」の起源*4は、「鳥追い」*5(とりごや)や「ゆきあな」と呼ばれる大きな雪室に子ども達が集まって楽しく夜を過ごす周辺農村の習俗、「鎌倉大明神」の幟を立てた雪壁内で正月飾りを焼く武家の左義長の習俗、地域の井戸の近くに水神を祭るという町衆の習俗という異なる習俗が混交して現在の形になったといわれている。
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みどころ

ブルーノ・タウトは「かまくら」を「すばらしい美しさだ。これほど美しいものを私は曾つて見たこともなければ、また予期もしていなかった。これは今度の旅行の冠冕(かんべん:もっとも優れたもの)だ。この見事なカマクラ、子供たちのこの雪室は!」と絶賛し、「子どもたちは世にも真面目な物腰で甘酒一杯をすすめてくれるのである。こんな時には、大人はこの子達に一銭与えることになっている。ここにも美しい日本がある。それはーおよそあらゆる美しいものと同じく、ーとうてい筆紙に尽くすことはできない」として、この行事全体が日本的な美を表わしていると記している。
 ブルーノ・タウトの時代より、雪も少なく、夜の暗さも異なるが、「かまくら」や「ミニかまくら」が設置されている会場では、まさに「美しい日本」、「雪中の静かな祝祭」の雰囲気を楽しむことができる。また、様々な小正月や迎春の行事が包含されていて、古くからの雪国ならではの豊穣、繁栄への祈願、生活の楽しみ方を垣間見ることができる。
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補足情報

*1 ブルーノ・タウト:1880~1938年。主観性を重視し大胆で単純化や変形した表現や形状を特徴とする表現主義を代表するドイツの建築家。ドイツの都市計画に数多く参画したが、ナチスから逃れ、1933(昭和8)年から1936(昭和11)年まで日本に滞在した。その間、仙台や高崎で工芸指導を行うとともに、桂離宮や伊勢神宮などの日本建築や日本文化の独自性を高く評価し「日本美の再発見」などを著した。
*2 「雪中の静かな祝祭」:1936(昭和11)年に横手を訪れたブルーノ・タウトは「日本美の再発見」のなかで「雪の静かな祝祭だ。いささかクリスマスの趣がある。空には冴えかえる満月。凍てついた雪が靴の下でさくさくと音を立てる。実にすばらしい観物(みもの)だ!」と称賛している。
*3 「梵天(ぼんでん)」:神霊が寄り付く依代(よりしろ)となる御幣形のものを指す。五穀豊穣、家内安全、商売繁盛などの願いを込め、市内の旭岡山神社に奉納する神事。秋田県内各地にあるが、横手の梵天は竿の長さは約4.3m、その先に直径約90cmの円筒形の竹籠を取り付け、「さがり」(布地や麻糸など)を垂らし、干支、人形などの意匠を凝らした頭飾りを取り付ける。重さは30kgにも及ぶ。
*4 「かまくら」の起源:子ども達が雪室を作って、御幣を祀る習俗は、江戸時代において秋田藩(県)内各地ですでにみられ、紀行家の菅江真澄は、1784(天明4)年、湯沢周辺で「わらはべ、かまくらあそぶとて、やよりたかき雪をうがち大なる穴をほり、そか中に笹のともし火して、あらぬさまかたりて更ぬ(子どもたちがかまくら遊びをするといって、家より高い雪に大きな穴を掘り、その中に笹の灯火をして、あらぬさ(幣)を奉ったりして、夜が更けていった)」と記しており、また、1814(文化11)年頃の「風俗問状答」によると久保田(秋田市)では、小正月の「此日には、左義長をし侍る。鎌倉の祝の躰は二日三日ばかり前より、門外に雪にて四壁を造り厚さ一尺二尺にし水をそそぎ氷をかためて、それへ其日には茅を積み門松飾藁などを積みて・・・中略・・・やや暮れ行く頃、几(机)に餅と神酒を供し火きりて焚付るや。火の熾(さか)んに燃え上るを待待(まちまち)て四壁に立たる米の俵結付し標(しめ)を引ぬきぬき火を移して振まは(回)る。」と、「かまくら」と左義長が入り交じった習俗があったという。横手においても1897(明治30)年頃までは雪囲いの中で、門松や炭俵を積んで燃やし火を振り回す行事がなされていたといい、これらは春に向けた五穀豊穣を祈願する予祝行事であったと考えられている。
なお、「かまくら」の名の由来は竈(かまど)形にいているからだという説、鎌倉大明神を祀ったからという説、神座(かみくら)がなまったという説など諸説あるが、定まったものはない。
*5 鳥追い:鳥追いは田畑の害鳥駆除を願う小正月の行事。菅江真澄が「しら粥に、もちゐひ入てくらふ。狗(いぬ)、猫、花、紅葉など、いろいろにいろどりたるかたしろ(形代:神霊がよりつくもの)を餅を持て作り、わりこに入て、わらはへ(童部)、家ことに持はこひたり、これを鳥おひくわしといふ」と記録している。この「かたしろ」を「かまくら」の雪室にも供えていたといわれる。また、横手市の北、六郷で「かまくら」として行われる、竹竿を打ち合う「竹打ち」行事のほか、秋田県内では、唄や太鼓、笛で「鳥追い」を行うところもある。