旧小坂鉱山事務所
JR花輪線十和田南駅から北へ約9km、明治から大正期にかけて日本でも有数の鉱産額を誇った鉱山の町、小坂町のシンボルとして建つ。
小坂の鉱山は、1861(万延2・文久元)年小坂村の農民により銀山として発見された。その後、南部藩が経営に乗り出したが、明治維新後に官営化され、1884(明治17)年に藤田組に払い下げられ、銅を主力に金・銀・鉛を産出し、小坂の町は大いに繁栄*1した。藤田組は1945(昭和20)年同和鉱業(現・DOWAホールディングス)へと商号変更を行い、小坂鉱山では黒鉱(銅・鉛・亜鉛の黒く重い鉱石)などの産出を続けたが1990(平成2)年に閉山。現在は、製錬や金属リサイクルが事業の中心となっている。
小坂鉱山事務所は1905(明治38)年に、藤田組小坂鉱山事務所の本部事務所として建てられた。段差があった地形に合わせ設計された口字型平面の木造3階建で、採光を考慮した階層構成と平面形状を持っている。ただし、現在の建物は、2001(平成13)年に旧所在地から約500m南方に移築され、保存されたものである。ルネッサンス風の漆喰壁面に、正面はイスラム風と思われるバルコニー付きのポーチとなっており、屋根には3つのドーマーウィンドー(飾り窓)が設けられているという、特異の外観を有している。屋内に入ると、玄関ホールには豪華な「らせん階段」が1階から3階まで通じており、柱は一本通しの秋田杉を使用、手摺りは緩やかな曲線を描いている。
現在は鉱山資料館として利用されており、2階、3階には建物の解説や明治期の小坂鉱山設備を紹介する資料、写真、パネルなどが展示されている。入館は有料。また、レストランも併設されている。年末年始のみ休館。
小坂の鉱山は、1861(万延2・文久元)年小坂村の農民により銀山として発見された。その後、南部藩が経営に乗り出したが、明治維新後に官営化され、1884(明治17)年に藤田組に払い下げられ、銅を主力に金・銀・鉛を産出し、小坂の町は大いに繁栄*1した。藤田組は1945(昭和20)年同和鉱業(現・DOWAホールディングス)へと商号変更を行い、小坂鉱山では黒鉱(銅・鉛・亜鉛の黒く重い鉱石)などの産出を続けたが1990(平成2)年に閉山。現在は、製錬や金属リサイクルが事業の中心となっている。
小坂鉱山事務所は1905(明治38)年に、藤田組小坂鉱山事務所の本部事務所として建てられた。段差があった地形に合わせ設計された口字型平面の木造3階建で、採光を考慮した階層構成と平面形状を持っている。ただし、現在の建物は、2001(平成13)年に旧所在地から約500m南方に移築され、保存されたものである。ルネッサンス風の漆喰壁面に、正面はイスラム風と思われるバルコニー付きのポーチとなっており、屋根には3つのドーマーウィンドー(飾り窓)が設けられているという、特異の外観を有している。屋内に入ると、玄関ホールには豪華な「らせん階段」が1階から3階まで通じており、柱は一本通しの秋田杉を使用、手摺りは緩やかな曲線を描いている。
現在は鉱山資料館として利用されており、2階、3階には建物の解説や明治期の小坂鉱山設備を紹介する資料、写真、パネルなどが展示されている。入館は有料。また、レストランも併設されている。年末年始のみ休館。
みどころ
小坂鉱山事務所は、明治後期の日本人建築技術者の設計であり、ルネッサンス風、イスラム風、和風など様々な要素が盛り込まれた建築デザインが特徴的で当時の明治後期における日本人の洋風建築設計技術の習得の状況が分り、興味深い。
また、日本近代化に大きな役割を果たした小坂あるいは周辺の鉱山の光と影にも思いを馳せることができる。
また、日本近代化に大きな役割を果たした小坂あるいは周辺の鉱山の光と影にも思いを馳せることができる。
補足情報
*1 繁栄:1921(大正10)年発行の地誌「鹿角」では当時の繁栄ぶりを「四方より集るもの數年ならずして三萬を超へ商家軒を列ねて一大都會をなし小坂町は優に市の價(価)値ありと稱せらるゝに及んだ」と記している。
2023年06月現在
※交通アクセスや料金等に関する情報は、関連リンクをご覧ください。