瑞巌寺ずいがんじ

JR仙石線松島海岸駅より北北東方向に向かって徒歩で10分ほど、松島海岸から国道45号線を挟んだ北側に位置する。正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」といい、現在は臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院である。
 平安時代の初め、比叡山延暦寺第3代座主・慈覚大師円仁によって開創された天台宗延福寺がその前身であると伝わっており、鎌倉時代中期の13世紀中頃、北条時頼が法身性西禅師(ほっしんしょうさいぜんじ)*を開山として臨済宗建長寺派への改宗を行った折りに、寺名を円福寺と改めた。
 室町時代になると、地方の名刹を示す「諸山」の地位に位置づけられ、やがて「関東十刹」に昇進し隆盛を極めたものの、戦国時代を経て次第に衰退し、16世紀末には教線を全国に拡大中だった臨済宗妙心寺派に属することとなった。
 関ヶ原の戦い後、伊達政宗は領民の精神的拠り所とするため盛んに神社仏閣の造営に取り組む中で、円福寺の復興には力を注いだことから寺勢を盛り返す。政宗は復興事業の開始にあたり自ら縄張りを行い、「浄土の地」とみなされてきた紀州熊野の銘木を材に用い、畿内より名工130名を招き寄せ、5年の歳月をかけて伽藍を完成させたという。
 1608(慶長13)年に鋳造された大鐘には、「山を号して松島と曰い、寺を名づけて瑞岩(巌)と曰う」という一文が見られる。これが「瑞巌寺」という呼称の初出であり、その後に正式名称を「松島青龍山瑞巌円福禅寺」とした。
 伊達家の菩提寺として厚い庇護を受けた瑞巌寺は60余の末寺を有し、領内随一の規模、格式を誇った。しかし明治維新後、新政府の神仏分離令による廃仏毀釈運動や、伊達家の版籍奉還による寺領の撤廃を受けて、什宝物の散佚、建物の損傷等を被る。こうした状況下、1876(明治9)年、明治天皇東北巡幸の際に行在所となったことを契機に、復興に向かう。
 桃山美術を現在に伝える貴重な建築物であることから、1953(昭和28)年に本堂(附属御成玄関)が、1959(昭和34)年に庫裡と本堂をつなぐ廊下が国宝に指定された。2018(平成30)年には10年に及んだ「平成の大修理」が完了し、創建当初の姿が甦った。
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みどころ

総門をくぐると、かつては杉木立に包まれ幽すいさが漂ったが、東日本大震災時の津波による塩害によって木々は立ち枯れ、やむなく伐採された。
 総門を入り右手におれた東側の崖には、洞窟遺跡群が続く。洞窟の壁面には供養塔や五輪塔、戒名等が無数に刻まれており、供養場として使用されていたことが窺える。
 中門を入ると正面には本堂*、右手に庫裡があり廊下*で結ばれる。前庭には、政宗が朝鮮から持ち帰り、瑞巌寺の上棟祝いに手植えしたと伝わる臥龍梅と名付けられた紅白の梅がある。
 一見質素に見えるが、中のふすま絵や欄間は煌びやかな絵画が施されており、伊達者といわれた政宗らしい華やかさが感じられる。
 また境外仏堂の五大堂*へは参道をもどり、国道45号線をこえて左手に向かい、さらに右手の「すかし橋」と呼ばれる朱塗りの橋を渡る。橋板の間が空いているのは、参拝者が身も心も引き締まるようにと、造られたらしい。
 ところで、民謡斉太郎節は多くの人が知っていて口ずさむが、その一番は「松島のサーヨー瑞巌寺ほどの 寺もないトーエー・・・」と、瑞巌寺ほどの寺はないと称賛している。
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補足情報

*法身性西禅師:(1189~1273年)常陸国真壁郡生まれ。国守の下僕になったが、恥辱を受け入道。宋に渡り仏鑑禅師に帰依し、帰国して松島円福寺を開く。
*本堂:正面38m、奥行24m、単層で入母屋造、本瓦葺。三方に上縁と下縁をめぐらし、内部は中央に仏間を配し、10室に区切られている。欄間の彫刻は極彩色を施し、各間の障壁画は狩野派や長谷川等胤の絵で飾られている。
*庫裡および廊下:正面13.8m、奥行23.6m切妻造の本瓦葺で大屋根の上には入母屋造の煙出しを載せている。
*五大堂:瑞巌寺の南東約500m、国道45号線を挟んだところにある。松島海岸広場の東端、小島の上に立つ。現在の建物は、伊達政宗がこれまでの戦勝の返礼として再建したもの。屋根は単層宝形造、本瓦葺で、蟇股には特徴として、方位に従い、12支の彫刻を配してある。五大堂の中の五大明王はブロンズ復元像で、木像五大明王像は宝物館に収蔵され、秘仏として33年に1度開帳される。
関連リンク 瑞巌寺(WEBサイト)
参考文献 瑞巌寺(WEBサイト)
宮城県(WEBサイト)
『宮城県の歴史散歩』 宮城県高等学校社会科(地理歴史科・公民科)教育研究会歴史部会=編 山川出版社

2023年12月現在

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