大崎八幡宮おおさきはちまんぐう

仙台城跡の北、青葉山の緑が望まれる丘陵地に鎮座する。歴史ある石鳥居*をくぐり急な石段を一直線に登り、老杉が茂る昼なお暗い境内広場に出ると、門のような長床*が構え、その奥に社殿*が立つ。
 神社は坂上田村麻呂が武運長久を祈念すべく守護神である宇佐八幡宮を胆沢城(奥州市水沢)に勧請、鎮守府八幡宮を創建。その後、室町時代に奥州探題の大崎氏が遠田郡に勧請したのが神社の始まりという。別に、1057(天喜5)年、源義家が安倍貞任と戦うため、京都男山八幡宮より神体を遠田郡八幡村(大崎市田尻)に勧請し、中世には大崎氏十三代にわたり尊崇し、大崎八幡と称した説もある。
 江戸期に入り、1604(慶長9)年、政宗は城下鎮護のため仙台城の乾(北西)の方角を神域と定め、大崎氏が尊崇した八幡宮と米沢の成島八幡宮とを併せ祀り、仙台藩総鎮守として現在の地に約3年かけて社殿を造営した。大工や棟梁、飾金具、天井画や壁画などに、山城国や紀州の職人たちが関わった。国宝の社殿は、本殿と拝殿をつなぐ石の間造*(権現造)としては現存最古の桃山様式建築の一つである。本殿は桁行5間・梁間3間、拝殿は桁行7間・梁間3間、ともに入母屋造・杮葺き。社殿は黒漆塗だが、組物や細部の彫刻などは極彩色に彩られている。本陣の内陣(非公開)には山水画が描かれ、石の間格天井には草花が描かれている。拝殿側には、折上格天井(おりあげごうてんじょう)が設けられている。
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みどころ

鬱蒼とした杉木立のなかに、目を奪うような華麗な社殿が鎮座する。きらびやかというしか言いようがない美しさである。
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補足情報

*石鳥居:1688(寛文8)年、仙台藩4代藩主伊達綱村が社殿修築に際して寄進したもので、岩手県東磐井郡産の花崗岩を使用している。1907(明治40)年に修復されたが、県内鳥居としては仙台東照宮の石鳥居に次ぐ古いものである。
*長床:正面9間、側面3間、屋根は入母屋造・杮葺き、正面中央に軒唐破風をもつ。素木造で細長く、中央が門のように通路になっている土間があり、その両脇の室は板敷きの床になっている。
*社殿:1607(慶長12)年伊達政宗の建立。拝殿・石ノ間・本殿が一体となる典型的な権現造である。柿葺きの屋根の流れはリズミカルであり、建物全体は黒漆塗で組物や彫刻などは金箔張り付け・胡粉彩色・飾金具が施され、漆塗の黒に映えて鮮やかさを増す。本殿は正面5間、側面3間、入母屋造。拝殿は正面7間、側面3間、正面に千鳥破風を付け、向拝に見事な軒唐破風を付ける。内部は中央間、右に将軍間、左に法親王間の3室からなる。本殿と拝殿を結ぶ石ノ間は正面1間、側面1間、両下(まや)造の屋根。内部は本殿と拝殿に比べ床が一段と低く、板敷で、格天井には53種の薬草が金泥で描かれている。これら3棟が相まって外観は複雑な形となる。
*石の間造(いしのまづくり):権現造とも言い、神が宿る本殿と人が参拝する拝殿を、石の間と呼ばれる部屋で繋いで一体化した神社建築のことである。後に徳川家康(東照大権現)を祀る日光東照宮にもこの形式が用いられたことから、このような形式の社殿を権現造と呼ぶようになった。なおこの大崎八幡宮の社殿は、京都の北野天満宮社殿(大崎八幡宮と同じく慶長12(1607)年に竣工)と共に、権現造としては現存最古のものである。
関連リンク 大崎八幡宮(WEBサイト)
参考文献 大崎八幡宮(WEBサイト)
宮城県(WEBサイト)
宮城まるごと*探訪(公益社団法人 宮城県観光連盟)(WEBサイト)
『宮城県の歴史散歩』宮城県高等学校社会科(地理歴史科・公民科)教育研究会歴史部会=編 山川出版社

2023年08月現在

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