多賀城跡附寺跡たがじょうあとつけたりてらあと

JR東北本線国府多賀城駅の北西約800m、仙台平野を一望できる松島丘陵の先端一帯が多賀城跡である。江戸時代初め、外郭南門跡の北約30mにある多賀城碑の発見*により、遺跡が多賀城跡であることが判明して以来、多くの学者によって研究されその重要性が知られてきた。地元住民による保護や保存状態が良好であったことから、1922(大正11)年多賀城廃寺跡*とともに、国の史跡に指定された。さらに1960(昭和35)年から始まった発掘調査により、単なる軍事基地としてとらえられてきた性格も大きく見直され、1966(昭和41)年に特別史跡に指定された。その後、館前遺跡*、柏木遺跡*、山王遺跡千刈田地区*が追加指定された。
 古代の城柵跡で、奈良時代の初期には陸奥鎮守府*と国府が併置され、陸奥・出羽両国の行政監督官である按察使(あぜち)も派遣されていた。鎮守府は蝦夷(えみし)に対する軍事拠点である。創建は多賀城碑に724(神亀元)年とある。発掘調査により721(養老5)年前後から造営が始まり、11世紀半ばころに終焉を迎えるまで、古代東北の政治・文化・軍事の中心地としての役割を果たした。陸奥国府だけが南北朝時代まで続いたといわれる。
 規模は約900m四方で、周囲は高さ4~5mの築地塀で囲まれ、南・東・西に門が開いていた。ほぼ中央に儀式などを行う政庁があり、政庁は第Ⅰ期から第Ⅳ期まで4時期の変遷*があった。さらに、城内の城前・作貫(さっかん)・大畑・六月坂・金堀・五万崎の各地には、実務を行う役所や工房、兵士の宿舎などが置かれていた。国府では税をとる仕事やそのための戸籍や土地台帳などたくさんの帳簿をつくっていた。総計1,000人にも達する人々が多賀城の仕事を支えていた。
 発掘調査は、1960 (昭和35)年から、現在に至るまで継続して行われている*。調査の際に出土した貴重な遺物は東北歴史博物館に展示されている。
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みどころ

古代日本の律令国家は710(和銅3)年に都を平城京に移し、国家統一を目指して、残る蝦夷社会に対し中央集権的な政治制度を組入れることを目指した。712(和銅5)年、東北地方の西に新たに出羽国を置いて、東には724(神亀元)年、ここに前線基地となる多賀城を築いて、北に向かって領土拡大を図った。征夷大将軍坂上田村麻呂の起用や、実際に生じた蝦夷軍の族長アテルイとの闘いなどはその例である。多賀城は柵といった程度のものでなく、約900m四方の大きさで、現在なお発掘ないし整備が進捗中である。
 やや離れて、多賀城廃寺跡、館前遺跡、柏木遺跡、山王遺跡も、多賀城の関連として特別史跡として加えられたように、当時広大な行政タウンが形成されていたことを知る。現地を訪れると、整備により礎石などでわかりやすくなっているうえに、説明板やかつての建物の図化、整備後の写真などがあり、初めての来訪者にもここの史跡が理解できるようになっている。時間をたっぷりととって見てほしい。
 隣接する東北歴史博物館では、定期的に多賀城跡の史跡巡りや体験教室を行っている。
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補足情報

*多賀城碑:碑の覆屋は、全国の史跡などを調査していた徳川光圀が仙台藩4代藩主伊達綱村に造営を勧めたもので、現在のものは、1875(明治8)年につくられて、1997(平成9)年に修繕したもの。宝珠の露盤は、堤焼の名工庄子乾馬(けんば)の作。多胡碑(群馬県)、那須国造碑(栃木県)とともに日本3古碑の一つ。
*多賀城廃寺跡:多賀城と同時期に創建された多賀城の付属寺院跡で、多賀城跡の南東約1.2kmの高崎地区にある。東に塔、西に当面する金堂があり、その北には講堂が置かれ、中門から延びた築地塀が塔と金堂を取り囲み講堂に取りつくという伽藍配置は、大宰府付属の観世音寺と共通している。寺の名称は、山王遺跡から「観音寺」と書かれた土器が発見されており、寺名の可能性が高い。特別史跡に指定された1966(昭和41)年から史跡公園として整備されている。
*館前遺跡:多賀城跡の南東200mの台地上から、多賀城の政庁正殿に匹敵する規模の主屋を中心に、6棟の建物が発見された。年代は9世紀ころ。国司の邸宅か、多賀城に関わる重要な施設ではないかと考えられている。
*柏木遺跡:多賀城跡から南東約4kmの大代地区にある。製鉄炉、木炭窯、工房跡など、製鉄を行った跡が良好な状態で見つかった。8世紀前半のもの。
*山王遺跡千刈田地区:多賀城跡の西方約1kmのところから、大規模な建物跡や高級な陶磁器などが発見された。注目は「右大臣殿 餞馬収文(せんばしゅうもん)」と書かれた題箋軸木簡(だいせんじくもっかん)が出土したことで、この場所が10世紀前半頃の陸奥守の邸宅跡であることがわかった。地方の役所で、国の長官の邸宅が明らかになったのは全国で初めて。
*陸奥鎮守府:奈良時代から平安時代にかけて蝦夷政策のために置かれた最高軍政府。
*政庁の変遷と規模:政庁の変遷から4期に大別できる。Ⅰ期は724(神亀元)年から762(天平宝字6)年まで。蝦夷政策に功績があった大野東人(おおののあずまひと)によって創建される。建物は掘立柱式。Ⅱ期は762年の修造から780(宝亀11)年に反乱で焼失するまで。建物を礎石式に改め、前庭を石敷きとし、南門に翼廊を取り付けるなど、大規模な整備がされた。正殿の東西に楼や北に後殿も設けられた。Ⅲ期は、780年から869(貞観11)年の陸奥国大地震による被災まで。Ⅳ期は869年から11世紀中頃までである。
*現在の整備状況:2024(令和6)年まで、南門及び築地堀の復元、古代役所エリアの整備が進捗中である。
関連リンク 多賀城市(WEBサイト)
参考文献 多賀城市(WEBサイト)
宮城県(WEBサイト)
『宮城県の歴史散歩』宮城県高等学校社会科(地理歴史科・公民科)教育研究会歴史部会=編 山川出版社
『蝦夷・アテルイの戦い』久慈 力(著) 批評社

2023年07月現在

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