達谷窟毘沙門堂
平泉駅の西南約6km、東北自動車道一関ICより約10分、一関市との境界近くにある。
その昔、夷酋の頭・悪路王*がこもった岩屋といわれ、これを征伐した征夷大将軍坂上田村麻呂公が蝦夷平定の御礼に鞍馬の昆沙門天を勧請し堂を建立、鎮国の寺社*としたといわれる。昆沙門堂には108体の昆沙門院が安置されていたが、2度の火災で焼失し、現在の堂は1961(昭和36)年に再建されたもの。
毘沙門堂の左隣の岩壁には、大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる岩面大佛(大磨崖仏)が約16.5mの高さに掘られている。上下約3.6m、肩幅約9.9mもの大きさで、前九年の役と後三年の役*で亡くなった敵味方の霊を供養するために、源義家が彫りつけたと伝えられている。
その昔、夷酋の頭・悪路王*がこもった岩屋といわれ、これを征伐した征夷大将軍坂上田村麻呂公が蝦夷平定の御礼に鞍馬の昆沙門天を勧請し堂を建立、鎮国の寺社*としたといわれる。昆沙門堂には108体の昆沙門院が安置されていたが、2度の火災で焼失し、現在の堂は1961(昭和36)年に再建されたもの。
毘沙門堂の左隣の岩壁には、大日如来あるいは阿弥陀如来といわれる岩面大佛(大磨崖仏)が約16.5mの高さに掘られている。上下約3.6m、肩幅約9.9mもの大きさで、前九年の役と後三年の役*で亡くなった敵味方の霊を供養するために、源義家が彫りつけたと伝えられている。

みどころ
崖に抱かれるように建つ達谷窟毘沙門堂、岩面大佛は特筆すべきほどの見応えがある。境内は神域であるため、飲食や動植物の採取、殺生、ペットを伴っての参詣などは禁じられ、厳かな雰囲気を漂わせている。神秘的な雰囲気の感じられる東北有数の霊場。
貼れば悪鬼を払い福を招く最強の御札として有名な護符の牛玉寳印を授かることができるが、人気のため期間中でも無くなってしまうこともある。運よく残っていたら、ぜひ授かりたいものだ。
貼れば悪鬼を払い福を招く最強の御札として有名な護符の牛玉寳印を授かることができるが、人気のため期間中でも無くなってしまうこともある。運よく残っていたら、ぜひ授かりたいものだ。

補足情報
*悪路王:平安時代前期の蝦夷(えみし)の族長。陸奥平泉田谷窟(達谷窟)を拠点とする。801(延暦20)年、征夷大将軍坂上田村麻呂と戦い、敗れた。阿弖流為(あてるい)*が伝説化された人物ともいわれる。
*阿弖流為(あてるい):奈良~平安時代前期の蝦夷(えみし)の族長。陸奥胆沢を本拠に桓武天皇の軍に抵抗し、789(延暦8)年、征東大使紀古佐美(きのこさみ)の軍に大きな打撃を与える。802(延暦21)年に征夷大将軍坂上田村麻呂に降伏し、河内(大阪府)で同年8月13日に処刑された。
*鎮国の寺社:「吾妻鏡」1189(文治5)年9月28日条によれば、源頼朝が平泉を攻め滅ぼした後、鎌倉への帰路に田谷窟に立ち寄ったとされる。また、同条によれば、この岩屋は坂上田村麻呂が当地を攻めた際、蝦夷が要塞として使っていたもので、のちに田村麻呂がこの前に多聞天像を安置した九間四面の精舎を建てて西光寺と号したという。
*前九年の役と後三年の役:平安末期、奥羽で行われた二大戦役。陸奥の安倍頼時(頼良)が陸奥の奥六郡を領しながら、賦貢・徭役を納めなかったので、1051(永承6)年に朝廷は源頼義・義家父子を派遣して討伐させた。一時頼時は帰順したが、1056(天喜4)年に再び乱を起こし、頼時死後も、その子貞任・宗任の勢力が強かったので、頼義は1062(康平5)年に出羽の豪族清原武則らの援助を得て、ようやく鎮定した(前九年の役)。その後、清原武則は鎮守府将軍として安倍氏の旧領を合わせて威を振るったが、1083(永保3)年に清原氏が内紛を起こしたので、源義家が苦戦の末、1087(寛治元)年に清原家衡・武衡らを平定した(後三年の役)。これにより源氏は東国に確固とした基礎を築いた。
*阿弖流為(あてるい):奈良~平安時代前期の蝦夷(えみし)の族長。陸奥胆沢を本拠に桓武天皇の軍に抵抗し、789(延暦8)年、征東大使紀古佐美(きのこさみ)の軍に大きな打撃を与える。802(延暦21)年に征夷大将軍坂上田村麻呂に降伏し、河内(大阪府)で同年8月13日に処刑された。
*鎮国の寺社:「吾妻鏡」1189(文治5)年9月28日条によれば、源頼朝が平泉を攻め滅ぼした後、鎌倉への帰路に田谷窟に立ち寄ったとされる。また、同条によれば、この岩屋は坂上田村麻呂が当地を攻めた際、蝦夷が要塞として使っていたもので、のちに田村麻呂がこの前に多聞天像を安置した九間四面の精舎を建てて西光寺と号したという。
*前九年の役と後三年の役:平安末期、奥羽で行われた二大戦役。陸奥の安倍頼時(頼良)が陸奥の奥六郡を領しながら、賦貢・徭役を納めなかったので、1051(永承6)年に朝廷は源頼義・義家父子を派遣して討伐させた。一時頼時は帰順したが、1056(天喜4)年に再び乱を起こし、頼時死後も、その子貞任・宗任の勢力が強かったので、頼義は1062(康平5)年に出羽の豪族清原武則らの援助を得て、ようやく鎮定した(前九年の役)。その後、清原武則は鎮守府将軍として安倍氏の旧領を合わせて威を振るったが、1083(永保3)年に清原氏が内紛を起こしたので、源義家が苦戦の末、1087(寛治元)年に清原家衡・武衡らを平定した(後三年の役)。これにより源氏は東国に確固とした基礎を築いた。
関連リンク | 達谷窟毘沙門堂(別當達谷西光寺)(WEBサイト) |
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参考文献 |
達谷窟毘沙門堂(別當達谷西光寺)(WEBサイト) いわての旅(公益財団法人 岩手県観光協会)(WEBサイト) ひらいずみナビ(一般社団法人 平泉観光協会)(WEBサイト) 旅東北(一般社団法人東北観光推進機構)(WEBサイト) |
2023年09月現在
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