長勝寺と禅林街ちょうしょうじとぜんりんがい

長勝寺とその門前に続く禅宗の寺院街(禅林街)は弘前城の西南約1kmにある。
 長勝寺は堂々とした構えの三門*をくぐると右手に鐘楼、そして本堂・庫裏*が配されている。本堂の奥に続いて2代藩主津軽信枚(のぶひら)が建立したという御影堂があり、極彩色の厨子に収められた初代藩主津軽為信の木像が安置されている。また、津軽 承祜 (つぐとみ)*の遺体がこの地に安置されていた。境内の左手裏は津軽氏代々の霊廟であり御影堂より南へほぼ一直線に並び、いずれも東に面して玉垣で囲われ正面に門を置いている。
 1528(享禄元)年の創建で津軽家累代の菩提寺(墓寺)となったが、1610(慶長15)年、弘前城建設に着手した信枚は、領内各所に点在する寺社に対し、弘前城の守りを固めるべく城下へ移るよう命じ、長勝寺を城下西南の要衝(裏鬼門)に移築した。さらに1612(慶長17)年、信枚は長勝寺がある城下西南の要衝に曹洞宗の寺院を集結させ禅林街を建設し、曹洞宗33ヶ寺が直線的に並び建つ姿となった。
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みどころ

長勝寺境内には鎌倉時代の梵鐘、歴代藩主や奥方の霊廟、蒼龍窟の五百羅漢、本堂、庫裡などいずれも素朴ながら広壮なたたずまいを見せる。本堂は、八室からなる大型の本堂で、当初の形式をよく伝えており、方丈形の曹洞宗本堂として全国的にも最古に属するものとして価値がある。
 禅林街の一帯は濠と土塁で整備され、弘前城の西南の押さえとして守りに用いられる一方、城が落ちたときは逃げ込む場所として造られている。禅林街には杉並木が500m直線的に続き美しい景観となっている。もとは桜の木の並木であったが、木の下で宴会を開く人たちが絶えなかったため木をきらせたという。禅林街の入口には防御のための枡形*を設けている。禅林街のように、江戸時代初期に構成された同一宗派の寺院街は全国でも例がなく、藩政時代の貴重な遺構として国指定史跡となっている。
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補足情報

*三門:1629(寛永6)年2代信枚の建立。3間1戸の楼門で入母屋造、挧葺(とちぶき)。たたずまいは江戸初期の特色を示しているが、部分的に鎌倉時代の手法が見られる。
*庫裏:くり 本尊への供物や住僧の食事の調理などをする建物。古くは食堂(じきどう)といわれたもの。
*津軽 承祜 :12代藩主になることを嘱望されたが、18歳で病没した。弘前市新寺町にある報恩寺から長勝寺への墓地移転で、地下7mの場所に茶殻が敷き詰められた座棺に土葬されたもの。この時に自然ミイラ化(死蝋)した状態で発見されている。遺体の学術的な調査も行われた後、火葬し埋葬された。
*桝形:城の周辺の町中にあり敵の侵入を防ぐため道を直角に曲げた場所のこと

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