鞠智城きくちじょう

鞠智城は、九州自動車道植木ICから北東へ約12km、車で約20分の距離にある。菊池川中流域の標高90~170m前後の丘陵地に位置し、北は福岡県境に連なる山々を望み、南は菊池川により形成された平野が広がっている。面積は南北約1.2km、東西約1km、約550,000m2の規模を有し、総延長約3.5kmの土塁線や急峻な崖線で囲まれている。
 鞠智城は、東アジア情勢が緊迫の度を増した7世紀中葉以降に、大宰府防衛のためヤマト政権によって築かれた朝鮮式山城のひとつ。
西暦663(天智2)年の「白村江の戦い*」で大敗したヤマト政権は、唐・新羅連合軍の侵攻に備えて、西海道(九州)の統治の起点となった大宰府を守るため大野城(福岡県)、基肄城(佐賀県)、金田城(長崎県)などを築城した。鞠智城はそれらの城に食糧や武器、兵士などを補給する支援基地としての役割を担ったと考えられている。また一説には、西海道(九州)の南部地域などの支配の拠点だったとも言われている。
 1967(昭和42)年度に始まった発掘調査によって、これまでに掘立柱建物跡、礎石建物、鼓楼ともいわれている八角形建物跡2棟、貯木場にも使われた貯水池跡等の遺構のほか、南側の崖面に沿った土塁の3箇所(深迫・堀切・池の尾)で城門跡が確認されている。出土遺物としては、「秦人忍□五斗」と墨書された米の荷札と考えられる木簡、百済系の単弁八葉蓮華文軒丸瓦、古代山城唯一の銅造菩薩立像等、注目すべきものが出土しているほか、炭化米や礎石表面の火災痕跡などの遺構、遺物も見つかっている。
 熊本県では、1959(昭和34)年に県史跡に指定して保護を講じるとともに継続的に発掘調査を行い、1994(平成6)年度からは4棟の建物(八角形鼓楼、米倉、兵舎、板倉)の復元をはじめ、城の立地や規模、構造などを体験的に学習できる歴史公園としての整備を進めている。ガイダンス施設「温故創生館」では、展示や映像により、鞠智城の歴史や構造について学ぶことができる。
 また、熊本県では、鞠智城の学術的価値と知名度をさらに高めるため、鞠智城シンポジウムの開催、若手研究者の育成等、様々な取組みを行っている。
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みどころ

東京ディズニーランドとほぼ同じ広さを誇る鞠智城。1967(昭和42)年度からの県の発掘調査により、八角形建物跡をはじめとする72棟の建物跡や、貯水池跡、土塁跡など、当時の姿を物語る貴重な遺構が相次いで発見されている。まずは入口付近にある温故創生館で、鞠智城築城時代の歴史や、鞠智城の役割、構造などについて学んでから見学に出たい。
 見学では、ひときわ目を引く鞠智城のシンボル「八角形鼓楼」は外せない。鞠智城では、八角形建物跡が2棟1組が建て替えられた形で合計4棟発掘されている。国内の古代山城では類例がなく、韓国の二聖山城で同じようなものを見ることができる。この八角形建物を鞠智城では、鼓の音で時を知らせたり、見張りをしたりするための「八角形鼓楼」(高さ15.8m、重量約76t)として復元した。「八角形鼓楼」の他にも、米倉、兵舎、板倉があり、4棟の復元建物群が、当時を彷彿とさせる存在感を放っている。
 鞠智城は台地の上に位置しているため眺めも良く、天気の良い日には遥か遠くに長崎県の雲仙普賢岳を望むこともできる。夕陽に染まる鞠智城も風情があり、太古の昔に思いを馳せ、ゆったりとした時間を過ごすことができる。
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補足情報

*白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい):663(天智2)年、朝鮮半島南西部の白村江(今の錦江河口付近)で行われた海戦。唐・新羅に攻略された百済を救援するため、倭国ヤマト政権は大軍を送った。しかし、百済復興勢と倭国の連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗。このあと、中大兄皇子(のちの天智天皇)らは唐・新羅連合軍の侵攻に備えて、北九州に防人と烽(とぶひ、のろし台ネットワーク)をおき、水城を築くなど、海辺のまもりをかためた。
*国営公園:国が維持管理を行う都市公園として、国土交通大臣が設置するもの。イ号とロ号の2種類があるが、鞠智城はロ号公園化を目指している。
イ号:ひとつの都府県の区域を超えるような広域の見地から設置する都市計画施設である公園又は緑地。
ロ号:国家的な記念事業として、又は我が国固有の優れた文化的資産の保存及び活用を図るために閣議の決定を経て設置する都市計画施設である公園又は緑地。