山鹿灯籠まつり
山鹿灯籠まつりの行われる山鹿市中心部までは、九州自動車道菊水ICから東北東へ約8km、車で約15分。山鹿灯籠まつりは、毎年8月16日に大宮神社例祭「燈籠祭」で斎行される神事と、8月15日、16日の2日間に渡り催される奉納踊りや千人灯籠踊り、花火大会や松明行列など関連行事からなっている。
燈籠祭の起源は、一説によると、深い霧に行く手を阻まれた第12代景行天皇のご巡幸を、山鹿の里人たちが松明を掲げ無事にお迎えしたことに由来する。以来、里人たちは行在所跡(現在の大宮神社)に天皇を祀り、毎年灯火を献上するようになったのが始まりとされている。その後、鹿郡旧語伝記によれば、室町時代応永年中(1394~1428)に「菊池氏は祭礼の式法を改め、いろいろの灯籠を張り民に捧げさする」とある。また、江戸期宝永・正徳年中(1704~1716)には「灯籠の細工いや増しに宜しくなり、その名四方に高し」との記録が残っている。次第に灯籠*の種類も多くなり、現在のような精巧で煌びやかなものが作られるようになっていった。
現在、燈籠祭は、16日午前10時より熊本県神社庁から献弊使を迎え、関係者参列のもと「献弊祭」が執り行われ、午後10時、燈籠を奉納する神事「上がり燈籠」、午後12時、奉納した燈籠を燈籠殿に納める「下がり燈籠」が斎行されている。
前日15日には、金灯籠を頭に掲げた女性が「よへほ節*」の調べにのせて舞い踊る「山鹿灯籠踊り」が各所で披露される。午後6時30分からは大宮神社境内で、山鹿灯籠踊り保存会による「奉納灯籠踊り」が奉納される。その後、参道やおまつり広場で、各種団体によって灯籠踊りが深夜まで披露される。山鹿小学校グラウンドで行われる「千人灯籠踊り」には多くの観覧者が集まる。
燈籠祭の起源は、一説によると、深い霧に行く手を阻まれた第12代景行天皇のご巡幸を、山鹿の里人たちが松明を掲げ無事にお迎えしたことに由来する。以来、里人たちは行在所跡(現在の大宮神社)に天皇を祀り、毎年灯火を献上するようになったのが始まりとされている。その後、鹿郡旧語伝記によれば、室町時代応永年中(1394~1428)に「菊池氏は祭礼の式法を改め、いろいろの灯籠を張り民に捧げさする」とある。また、江戸期宝永・正徳年中(1704~1716)には「灯籠の細工いや増しに宜しくなり、その名四方に高し」との記録が残っている。次第に灯籠*の種類も多くなり、現在のような精巧で煌びやかなものが作られるようになっていった。
現在、燈籠祭は、16日午前10時より熊本県神社庁から献弊使を迎え、関係者参列のもと「献弊祭」が執り行われ、午後10時、燈籠を奉納する神事「上がり燈籠」、午後12時、奉納した燈籠を燈籠殿に納める「下がり燈籠」が斎行されている。
前日15日には、金灯籠を頭に掲げた女性が「よへほ節*」の調べにのせて舞い踊る「山鹿灯籠踊り」が各所で披露される。午後6時30分からは大宮神社境内で、山鹿灯籠踊り保存会による「奉納灯籠踊り」が奉納される。その後、参道やおまつり広場で、各種団体によって灯籠踊りが深夜まで披露される。山鹿小学校グラウンドで行われる「千人灯籠踊り」には多くの観覧者が集まる。

みどころ
「灯籠師」と呼ばれる職人の技術により、金属と見間違えるほど精巧に作られた山鹿灯籠。この山鹿灯籠は、木や金具は一切用いず、手すき和紙と糊だけで作られており、その繊細さと美しさから和紙工芸の極致とも評されている。山鹿灯籠民芸館では名作の数々のほか、灯籠師による制作実演を鑑賞することができる。
山鹿灯籠の代表的なものとして「金灯籠」が挙げられる。山鹿灯籠まつりではこの金灯籠を頭にのせて、浴衣姿の女性たちがゆったりとした情緒漂う山鹿の民謡「よへほ節」の調べにのせて優雅に舞い踊る。もっとも盛り上がりを見せるのは、山鹿小学校グラウンドで行われる「千人灯籠踊り」。この祭りのクライマックスで、よへほ節に合わせ約千人の女性が舞い踊る姿は圧巻。「祭りやお酒に、あなたもお酔い」と誘う「よへほ節」の調べも心地よく、櫓を中心にして渦のように流れ、幾重にも重なる灯の輪は幻想的な雰囲気を醸し出す。
山鹿灯籠の代表的なものとして「金灯籠」が挙げられる。山鹿灯籠まつりではこの金灯籠を頭にのせて、浴衣姿の女性たちがゆったりとした情緒漂う山鹿の民謡「よへほ節」の調べにのせて優雅に舞い踊る。もっとも盛り上がりを見せるのは、山鹿小学校グラウンドで行われる「千人灯籠踊り」。この祭りのクライマックスで、よへほ節に合わせ約千人の女性が舞い踊る姿は圧巻。「祭りやお酒に、あなたもお酔い」と誘う「よへほ節」の調べも心地よく、櫓を中心にして渦のように流れ、幾重にも重なる灯の輪は幻想的な雰囲気を醸し出す。

補足情報
*山鹿灯籠:室町時代から伝わる、木や釘を使わず、糊と手漉きの和紙だけで作製される伝統工芸品。金灯籠をはじめ、神殿造り、座敷造り、城造りなど様々な様式がある。全て手作業で行われ、「木や金具は一切用いず、和紙と少量の糊だけで作る」、「柱や障子の桟にいたるまで、各部位は空洞に仕上げる」、「灯籠としての美しさや迫力を表現するために、建物などを単なる縮小ミニチュアではなく、独自の寸法で工夫して作る」といった鉄則がある。なお、山鹿灯籠が発展した理由の1つには、山鹿が和紙の産地であったことがある。1592(文禄元)年に始まった文禄・慶長の役*の際に、加藤清正が高麗より連れ帰ったのが紙漉工の兄弟、道慶と慶春で、のちに現在の山鹿市鹿北町芋生に移住した慶春が、山鹿に紙漉きの技術を伝授したと言われている。
*文禄・慶長の役:1592(文禄元)から1598(慶長3)年にかけての、二度にわたる豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争。
*よへほ節:「よへほ」の語源については、「酔へ+ほ」からきたのではないかという説があり、「ほ」というのは肥後弁特有の、他人に何かを促すときや、相手の気を惹いたりする意味がある。このことから、この唄はもともと酒席、いわゆるお座敷唄として歌われていたようである。現在、使われている歌詞は、1933(昭和8)年に野口雨情によって改作されたもので、元唄は、男女の逢瀬……、呼び合いを歌った土俗風のものであった。
*文禄・慶長の役:1592(文禄元)から1598(慶長3)年にかけての、二度にわたる豊臣秀吉の朝鮮侵略戦争。
*よへほ節:「よへほ」の語源については、「酔へ+ほ」からきたのではないかという説があり、「ほ」というのは肥後弁特有の、他人に何かを促すときや、相手の気を惹いたりする意味がある。このことから、この唄はもともと酒席、いわゆるお座敷唄として歌われていたようである。現在、使われている歌詞は、1933(昭和8)年に野口雨情によって改作されたもので、元唄は、男女の逢瀬……、呼び合いを歌った土俗風のものであった。
関連リンク | 山鹿市観光課(WEBサイト) |
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参考文献 |
山鹿市観光課(WEBサイト) 山鹿灯籠民芸館(WEBサイト) 大宮神社(WEBサイト) 山鹿灯籠振興会(WEBサイト) |
2024年11月現在
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